残照

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陽が沈んだあとに、陽の光が雲などに反射して世界を少しだけ照らす光を残照と言う。その単語はなんとなく知っていたが、正しく解釈しているか自信がなかったのでここにこうして書く前に辞書検索をした。

明日から早くも会社が始まる。なんともせわしない年末年始だった気がするな。せめてあといちにちかふつか、休みが欲しいものだ。そして、会社がはじまって早々にプレゼンする課題の資料が未完成だったので箱根駅伝復路をながら見しながらだらだらと仕事をしてしまった。それが終わってからウォーキングに出る。歩いているうちに陽が沈み、短い残照の時間になった。上の写真を撮るときはEVFファインダーを見ながら、きれいだなあと思いました。いちばん下のビニールハウスを撮るときも、さらにそう思った。

まれに散歩の人とすれ違うが、ほとんどの散歩の人は犬を連れている。大きな犬や小さな犬、引っ張る犬と引っ張られる犬。私は犬を飼ったことがない。どんどん暗くなっていく。歩いている人が暗い向こうから不意に現れる感じになるが、空はまだ藍色だ。いや群青色かな。どうもその二つの色の違いをちゃんと把握していないな。

不意に現れるから逢魔ケ時などと言うのかしら。しかし犬を連れているのはなんだかいいな。犬を散歩に連れて行くというのが口実、いや口実ではなく主たる目的だったとしても、それでも人は犬に引っ張られたり引っ張ったり、あるいは綱はたるんでいて横に並んで歩いているときもあるか、そういうときに、なにを考えるのだろうか。

なんかね、昔は散歩しながら生意気にもいろいろと「思索」していた感じがしていた。自分のことですよ。擬人化とはなにか、とか、たった一人で生きている状況を生きていると言っていいのか、とか。でもいまは何も考えないで歩くことが出来てしまう。それにちょっとびっくりして、ぼんやり歩いているときに、なにか考えよう!と思ったものの、ではなにを考えればいいんだろう?と詰まってしまった。

 

箱根駅伝を沿道に見に出る人や、分散参拝して欲しいと言われてもちゃんと元旦そうそうに初詣に行って、行った「そこ」が密だとわかっても初志貫徹する人たちのことに憤慨する気持ちがあるが、それぞれの理由があってやんごとないのかもしれないな。そこに来てしまった人にテレビがインタビューして、みなさん「密を避けるようにしています」などと答えるのも矛盾だと感じるが、よく考えないと短絡的に怒ってはいけないのかしら。ほとんどの車が流れのなかで「あるべき運転」をしているなかで、ほとんどの車がそうだから故に、アクロバティックに車線を変えながら追い抜いて行く車のそれを可能にしている。それなのに、そういう運転をしている人は、自分は運転が上手いと勘違いしているのではないか・・・それと同じ感じがするのだった。でも散歩の途中にそんなこと考えてイライラするのも馬鹿みたいだ。

畑の散歩のディスタンスは平均百メートルくらいだった。一瞬すれ違うとき誰かと2mくらいに接近した瞬間は四回くらいかな。

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