赤い車

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ネットでちょちょいと調べると透明ビニール傘は1980年以降に急拡大して一般化したとあった。

ちょうど1980年頃に、透明傘だと、真上から落ちてくる雨粒を見ることができるようになる、これはすごい発明だ、ということを友達が言っていたのを不意に思い出した。あるいは携帯電話が広がり始めたのは2000年頃か、通話者が歩きながら、動的に景色や状況をレポートできるようになる。これはすごいことだ、と思ったことがあった。

でも透明傘をそういうふうにとらえたり実感したりした人はそんなにはいなかったかもしれない。私は一人も知らない。あるいは携帯電話になると当然できるようになるそういうことはすぐに当たり前になり、その「すごいこと」にあらためて感心することはなかったかもしれない。

仮想の動物をあれこれ想像してその想像の「ぶっ飛び方」に驚いたり笑いあったりして遊んでいたとして、ところが、それとほぼ同等のぶっ飛び驚きの動物が実際にいて目の前で生きていることを知ってしまうとする。するとその瞬間にはびっくりするだろうけれど、すぐに「あぁホントにいたんだ」と納得してすぐに飽きてしまうようなところがあるものだ。

新しい知見が事実だと知ったときに、そこにどれだけ驚きを感じられるかは、難しいことで、でもできるならばとっても驚くことが出来るほうが幸せなのかもしれない。けれど不幸せかもしれない・・・かも。

なんていうことを、何をきっかけで不意に思い出したり考えたりするのだろう?渋滞で動かない自家用車のなかで。