青い朝に

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1980年頃に、暮らしの中でフォルクスワーゲンのビートルを50台まで累積して目撃すると「良いことがある」という、誰が言い出したのだろうか、深夜放送のラジオが発信もとのような小さな都市伝説というか伝聞が友達のあいだでちょっと冗談めかして広がっていた。他愛のないお遊び。それでもバスのつり革につかまったり、国道の歩道を歩いているときに、ビートルを見ると累積数を伸ばして覚えておいた。ただ、これにはやはり難しさがあって、それは「赤を見るとゼロリセット」ということだった。そうなるとなかなか50まで達しないのだ。その頃すでにこの初代のビートルは「レトロな」感じの車であって、車好きの会社の友人は、その非力な電源をパワーアップする「12V改(じゅうにぼるとかい)」という改造がビートルのレストアでは一般的なことなのだ、と教えてくれたけれど、それが本当にそうだったのかは確かめようがないな。これを教えてくれた友人は丸目のゴルフに乗っていた。ほかにゴルフに乗っている友人がもう一人いて、彼のゴルフはディーゼルだった。残業をした帰り道にときどき家まで送ってくれたが、ディーゼルエンジンの車をスタートさせるまでの暖機運転の待ち時間が寒かった。なのでこの記憶は冬のことだろう。それが概ね40年前のことで、それから20年後の20年前あたりからデジタルカメラが普及を始めただろうか。この写真は電子単眼望遠鏡でついでに写真も撮れますよというデジタル機器で撮ってみた。夜明けの直前、ラーメン屋の隣にある中古車屋さんの駐車場に置かれていた。するとついでに撮れる写真は2000年をちょっと超えたころのカメラで撮ったようなノイジーな画質なのだった。そしてそういうデジタル写真のちょっと前のノイズもなにやらそれでノスタルジックなんだ。

最近では蒸気機関車を稼働可能に復元する手法として、石炭を釜で炊いて、そこから得られる上記を圧縮して駆動力を得るという本来の方法ではなく、圧縮空気を作り出す装置を、当時は石炭を燃やしていた「窯」に設置するという代替手段があるらしい。こういう自家用車も、あと何年かするとガソリンエンジンを取っ払って、電気モーターを配置することによるレストアなんて手法が出てくるのではないか?考えようによってはフイルム時代の古いレンズをマウントアダプターでミラーレスカメラに装着してデジタル写真を得られるようになっているのもちょっと近いかもしれないし、そういえばアナログレコードを非接触で再生できる手法もあると聞いたことがある。あるいはむかしのモノクロの動画フイルムをカラー化する技術で、NHKBSでは百年くらい前のアメリカの社会の変遷を追うドキュメンタリー番組をときどき放送している(もとはアメリカの放送局の制作だろう)。現代の技術はずいぶんとおせっかいで高飛車・・・なのかもしれないな。

何年か前に東京都現代美術館で「他人の時間」という複数のアーティストが参加というか選抜された展示を見たことがあり、そこで現代映像作家のミヤギフトシの沖縄のリゾートホテルを舞台にして交錯する過去を語っていくような、静謐な映像と秘められた心がゆらりとする物語を組み合わせた感じの映像作品を見た(たぶんこのブログをさかのぼればそのときのことが出てくるだろう)。たぶん会期中にその作品をもう一度見たくなって、二回、清澄白河の美術館へ行ったと思う。作品に偶然出会い、どうしてももういちど見たくてリピートすることは滅多にない。1977年くらいに名古屋に住んでいたころにメキシコの画家のタマヨの展覧会で出会った緑色のマグカップのような陶器が描かれた絵を見に二回か三回通ったことがあったことは覚えているが。

そのミヤギフトシが書いた中編小説三篇を収めた小説「ディスタント」を読んでいる。小説の書き口(という言い方があるのかどうか?知りませんが)は昭和の頃の日本の私小説家のようなのに、書かれているのは、ミヤギさんの世代のことだから、そこには私の世代よりあとの世代の人たちのくぐってきたハイティーンや二十代の頃の暮らしの標準としてのテレビゲーム機やロードプレーイングゲームや、オルタナティブロックとかシューゲイザーなどの音楽の単語が出てくるが、私はそのころはもうハイティーンでも二十代でもなかったから、それらはそういう名前の「物がある」ことは知っているがそれを使ったり遊んだり同時代で聴いて心を激しくゆすぶられたりしてはこなかった。だからその文章を読んで同時代的に共感できることは残念ながらないのだけれど、それでお丹念に読んでいると、それらによって心を揺さぶられることって、「それら」が違うだけで結局は人類という動物は心を揺すぶられながら、そういう年齢を超えてくるものなのだということだけで共感が沸くのだった。かといって感情移入が起きるわけではないだろう。その私小説は例えばその終わり方の「小説的」な美しさも気持ちがよい。核が日本の伝統的な私小説のようであり、でも世代が違うというだけで、それは読者である私の立ち位置がスライドしているってことだけかもしれないが、とても新しい感じがするのだった。

 

ディスタント

ディスタント