木蓮の花

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最近は週に三回か四回、自家用車で都内の会社まで通っていて(往路は1時間10分、復路は時刻にもよるが概ね1時間半、主に高速をひた走る)一回か二回は自宅でテレワークをしている。予定されているスケジュールに沿って会議に出て、会議の目的とする議論に参加して、会議の結果が決まる。そういう予定的な業務においては、出勤する必要はそれほど感じない。だけど、だからテレワークで何事も済んでしまうというのは違うんだろうな。それは「たまたま偶然に」とか「ちょっと別のことを話していて」とか「私的雑談でニュースの話をしているうちに」とか「だれだれの機嫌が悪いからなにやら対応を考えなくちゃと誰誰とトイレのまえで相談して」とか、たぶん以前だったら「大方針はタバコ部屋で決まる」なんて言われ方もしていたけど、そういう予定していないところから決まっている方向性や課題の明示と暗黙の受けあうこと、が重要だということに気が付いていないのではないか。あるいは、今時点の私のテレワークがそういうところはフォローしてない。でもたぶん、世の中には、そんなことまで意識して解決することを可能とするテレワークの最新手法がもうすでに当たり前にあるんだろう。

でもテレワークでは端的に相手に触れない。実際の業務で触ることなんかめったにないが、それでも握手をしたり肩をたたきあったりすることがチームワークには必要なときがたまにはあるかもしれない。あるいは、テレワークだと会議で寝ている人が見えない。そこから自分の資料の良し悪しを考えてフィードバックをしたり、その人のそういう「さぼっている」感じの一面を知ることが「人を知る」ことになっている部分は見えない。しかしね、こうやって時代は変遷してきていて、暮らしや仕事の「標準」は常に変わっていて、その変化に直面するたびに、それまでのやり方でやってきた人は必ずこういう「危惧」を覚えてきたに違いないのですね。なのでこういう心配や懸念をすることも歴史であり、それは結局は淘汰されて、新しい「標準」に合わせて人類はしぶとくコミュニケーションを維持して幸せを目指して平和を目指して、生きていくのだろう。

 

それで本日はテレワーク。仕事が終わったあとに近所に散歩に出てみる。するとすぐ近くの路地に紫木蓮が満開の花をつけていた。こんなところにこんなに花が!という驚きはうれしいです。それで持っていた例の電子単眼望遠鏡のチープなカメラで写真を撮ってみましたが、これはなかなかによく撮れてるのではないかな?

こうやってみると枝ぶりがよく脳の仕組みの解説をする図に描かれているシナプスのようようです。曇りの日に花を見上げて空をバックにして、露出をオーバー目に振りながら写真を撮ると、花を描いた日本画のようだと思う。きっと絵師たちは花がある前提で枝をどう描くかに執心したのだろうなと類推する。