心が写ること

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写真がデジタル化されるまえ、1980年代~2000年代前半には写ルンですの普及もあって大量に写真フイルムが消費されていただろう、数を背景にプリントの価格はずいぶん安価になっていた。撮り終えたフイルムを街のDPE店に持っていくと、自動現像機とか自動プリント機が配備されていたってことなのだろう、一時間くらいでフイルム現像と同時に一枚づつL版プリントされた写真もセットになって帰ってきた。そこには画像からそれが失敗写真かどうかを分類する機能もあったのか、ピントがぼけていたりぶれている写真は同時プリントからはじかれていることもあった。それが故意にぶらしたり故意にぼかしたりしたこともあったから、同時プリントからそうしてはじかれるとちょっとむっとしたこともあった。その同時プリントと同時に簡易アルバムがおまけで付いてくることもあった。L版プリントをその簡易アルバムに挟んでいくとそのフイルムが運動会とか誕生会とか遠足を撮ったものだとすると、それでもう運動会や誕生会や遠足のアルバムが出来たものだ。

叔父さんが白山に登ったときの写真をまとめてあるそういう簡易アルバムを見せていただいた。多くが一緒に山に登った家族や同僚が笑顔で写っている記念写真だったが、なかに黄色い花が手前一面に咲いている写真があった。その写真を見ていて、撮影者(たぶん叔父さんだろう)がその花を見て、なにか心を動かされたんだろうなと思った。それはそうだろう、わざわざそこにカメラを向けてシャッターを押したんだから、と言われたら元も子もない。すなわちそういうことだ。その黄色い花が一面に咲いているその場所に心が動いたに違いないのだ。写真を出来た直後だと、写った同僚や家族に意識が行くような気がする。誰それがこう言ったとか、こんなことをしたとか、その旅の思い出が先に立つだろう。それが記念写真の役目だ。でも登山から数十年たち、そこに一緒に登ったわけでもない、そういう鑑賞者の私が見ると、その黄色い花にカメラを向けた撮影者の心がなんだかものすごくわかる。言い方が大変失礼なのだが、そう言う風に動いた心が優しさなのかなんなのか良い言葉が見つからないが、とても共感されるのだ。


さて東海道線下り電車が多摩川鉄橋を渡ると、ちょうど並走する京浜急行の鉄橋に赤い電車が走ってくる。ありきたりの写真のようでいて、ちょうど電車が並走することなんか滅多にないの。しかも自分が通過している鉄橋の「枠」が写真の中に写ってしまう確率が半分以上あるから、こんな風に写真が写るのは珍しい。などという偶然の苦労はどうでもいいのだが。この写真にはどんな気持ちが写っているのだろうか。時を経たあとに見ると、気持ちが浮き立って見えるのかな。