15年くらいまえによく撮っていた6×6

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2005年前後に生家のあった辺りをアルバムに貼られていた写真をたよりに行ってみたという話は数回前のブログに書いた通りで、生家かもしれない家も見つけたけれど、そこで過ごした記憶がひとつもないので(1歳までしか住んでいなかったはず)懐かしさのようなことはなにも感じなかった。その日は東舞鶴駅でレンタサイクルを借りて、生家のあったあたりまで行ってみたのだが、その途中にあった自衛隊の学校?基地?の運動場がこの写真です。フイルムはフイルムスキャン機能があったフラットベッドスキャナーで読んだのだが、やはりフイルム面についていたゴミが写ってしまってますね。左よりの空のところなど。フォトショできれいにすればよいのだが・・・まぁいいか・・・

2005年前後には借りたニューマミヤ6か友人に譲ってもらって使っていたミノルタオートコードのどちらかのカメラにネガカラーフイルムを入れて写真を撮っていた。人が撮る写真はその人の「らしさ」が出るからカメラを変えても変わらない「らしさ」がある、というのも本当だが、一方でカメラが変わると撮るものが変わるのも事実だと思う。こんなのはよくよく考えると当然ですね。ある一人の男(でも女でも)があるカメラを使って撮った写真、その男(でも女でも)が別のカメラを使って撮った写真は、写真の群としてみればカメラの差による違いが現れるが、でもその男とは違う別の男(でも女でも)が同じ風に二台のカメラで撮った写真と比べれば、やはりその男たる「らしさ」が両方の写真の群に共通に出ているものだろう。当時6×6で自分が撮っていた写真は少なくともいまのデジカメよりはじっくりと構えて時間を掛けて撮ることを必要とする分、瞬間の動きを止めた(数秒~数百分の一秒のあいだに状況がどんどん変化する場面である一瞬を止めた)写真というよりもっと動きのない(数秒~数百分の一秒だとなにも変わらない)写真が多いから、そういう意味ではカメラによって撮る写真の中心位置みたいなことは変わっているけれど、どこを撮ろうという見方の大枠は変わっていないんじゃないか。

昨日のブログにも書いたように「湘南」で撮った写真を集めた写真集を作って、一昨日に三冊だけ発注した。そのあとに、どうせなら2005年前後に6×6のネガで撮った写真も同様にまとめておこうと思った。それで古いHDDをパソコンにつなげて起動させてそのファイルを探してみる。けっこうな本数が撮ってあったので、そこから「一次セレクト」として150枚くらいを選んだ。母数はどうだろうその三倍くらいに過ぎないかな・・・なにしろ一本のフイルムで12枚だっけ、それしか撮れないので、石川直樹がテレビで言っていた「枚数が撮れないぶん一枚に集中して入魂して撮る」といったようなことはよくわかる。たしかにそういう感じで撮っていました。マニュアルの中版カメラということ自体で、撮るための準備とかピント合わせに慎重になるとか、いろいろ面倒で、なのでそんなこと(入魂とか・・・)をその撮る現場で考えなくても、いやおうなく集中するように、そう仕向けられているとも言えますね。ところがそうやって今朝、セレクトした150枚の入ったフォルダーをあらたに作ったあとに気が付いたのだが、以前京都の同時代ギャラリーで仲間とグループ展をやったときにこの頃の6×6を展示したとき、事前審査というのが一応、形ばかり?あって、そのときにも同様にこの頃のネガフイルムからのセレクト作業をしていたわけで、そのときのセレクトした写真(画像データ)がまとめてあるフォルダーが見つかった。それで本当に驚いてしまったのだが、たぶん十年くらい前に同時代ギャラリーで写真展をやるためにセレクトした写真と本日そんなことはすっかり忘れてセレクトした写真が、ほぼ完全一致していて、すなわち、あの頃(十年くらい前)に自分が写真を選ぶ基準といま写真を選ぶ基準がほとんどなにも変化していないという事実を知ってしまいました。変わらずに確固たる基準があるからすごい、ということではなく、ぜんぜん変わっていない、ということに少しがっかりしたのでありました。

朝早くちょっと隣のコンビニエンスストアに行こうと外に出たら、雨男の神髄発揮!でちょうどその瞬間から雨が降り始めた。今朝のことです。9/18の。そのときに雨粒が乾いた土をたたいたせいで少し土臭さが匂った。この匂い、小学生の頃に好きだったな、と思い出す。校庭に通り雨が来たり、あめでなくても風が吹き抜けて校庭の砂というか土が舞い上がって・・・そういう強い風や雨の日って、少年の心としてなにかザワザワとした、どちらかというと内向きでなく外向きな、旅に出たいと思うような気持ちを(そういう「旅」みたいに、自分でその気持ちを言葉に置き換えてはなかった(出来なかった)けれど)覚えていた、それが今となって土の匂いに連動して思い出される・・・のかな?小学校の給食室から第二校舎の方に行くには渡り廊下が少し下り坂になっていてそこが風の通り道でよく土の匂いがしたものです。そんなことはよく覚えている。覚えているというより覚えてしまってある(いるじゃなくてある)、って感じですかね。