思いと意見

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吉田篤弘著中公文庫「ソラシド」P315より

いまはこうして別の方向を向いているけれど、表面的な言葉や、つまらない理屈を取り払ったら、下地にあるのはきっと同じ思いだ。おそらく、みんな同じひとつの思いから出発している。右や左を向いてしまうのは取るに足らない即物的な感情のせいだ。

「どうしてかな」とソラは声に出して言った。

「え?」とカオルとトオルがソラを見る。

「思いはひとつなのに、どうして意見は分かれてゆくんだろう?」

「それはたぶん」

トオルが答えた。

「思いは言葉になりにくいけど、意見は言葉で出来ているからじゃないかな。なにかの本にそう書いてあった。意見はただの言葉だって。でも、このレコードからは言葉を超えた思いが聴こえてきた(後略)

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あなたの考えはどう?どうしてこうなったと考えますか?どれが好きですか?・・・質問をされたときに、言葉で答えなければならず、でも自分の考えや、そうなった理由をどう考えるかや、好きな理由は、その思いを言葉に変換して発しているときに、どれだけ真実性を保っているのか、どれだけ真摯に言葉にしているのか。そして聴く方はその言葉を受けて、そこにまた言葉の解釈のあやふやさがあるときに、どれだけその思いって伝わっているのか?答えを聴いてそれを解釈している段階で、その解釈後の言葉はもう回答を逸脱した勝手な理解にまみれているに違いない。誰かに思いを伝えるときに、それがうまく伝わっていなくて、例えば不安や猜疑心をあおってしまっていると感じたりすると言葉に頼ることの不自由さを感じてしまう。しかし言わないとさらになかなか伝わらない。そんなことをなんとなく感じることが多かったから、この「思いは言葉になりにくい、意見は言葉で出来ている」と言うところを読み、ちょっとページの端っこを折った。もしかしたら吉田篤弘も誰かの言葉を引用したのかもしれないが・・・

写真家のトークショウを聴いていると、写真を撮る行為や動機を聞かれたときに「なんかこう・・・」と言うことが多いと思ったことがある。なんかこう・・・のあとに無理やりその動機を言葉にしようとして四苦八苦していらっしゃる。動機だけでなく、写真を説明したり解説するときにも、同様に。

もしかすると写真を撮るという行為は「思い」に支えられていて、選ぶ行為は「意見」というか「言葉」に支えられがちなのかもしれない。「思い」で選ぶのはどうすれば出来るのか・・・

上の写真は冬の日が回りの建物に遮られるなかでもなんとか届いている小さな公園。子供たちが乗って遊ぶ遊具にキャンディとかクワガタが使われているのは珍しいかもしれない。だけどこの写真を撮るときに、キャンディやクワガタだと一瞬見定めたものの、それをちゃんと残そうとしたわけでもなく、ただ、通り過ぎるときに見定めたその一瞬がそのままシャッターを押すという行為までつながっているだけだ。一瞬の撮影で足を止めないこともある。と言うことは選ぶときも一瞬で選ぶ、目に入った瞬間の画像に「なんかこう・・・」と引っかかるかどうか、それだけで選ぶのがいいのかもしれない。

足も止めずに一瞬で撮るときでもなるべくぶれないように、そういう撮影をするときにはシャッター速度優先モードにして、例えば1/1000秒などにして、そんな撮り方でもぶれないようにしている。