なんかいい

 年に一回、会社の補助で受診出来るがん検診を受けに代々木駅近くの病院に朝8:15に行く。内臓のCTと胃カメラ胃カメラ検査の眠りから覚めて簡単な結果報告を受けて病院を出たのが11:40くらいだった。スマホで調べておいた近くの日本料理店のランチ海鮮丼1400円を食べる(ごめんなさい、イマイチでした)。それから路地を気分で選びながら、小田急電鉄の線路に付かず離れず歩いて行く。代々木上原駅まで。小田急線の駅は、新宿・南新宿(代々木の病院に近い小田急の駅はこの南新宿駅)・参宮橋・代々木八幡・代々木上原、と続くから、だいたい三駅くらいを歩いたことになる。グーグルマップで検索すると2.8キロメートル36分と出たけれど、行ったり来たり、迂回したり戻ったり、なので、4キロメートル1時間半といったところだ。距離の割に時間が掛かるのは、写真を撮るために立ち止まるからだ。カメラはコンパクトデジタルカメラで、首にぶらさげ、背面液晶はこう明るいとあんまりよく見えないから、もうほとんどがノーファインダーで、実際の映像は見えにくくなっても水平が出ているかどうかのガイドラインはまだなんとか見える。ここは縦横が傾かずに撮りたいという被写体のときだけはガイドラインを気にして撮る。当たり前だけど、すなわち街を歩いていると老若男女とすれ違うごとく、新しいビルも古いビルもあり、新しいアパートと古いアパートがあり、新しい戸建ての小さく縦に長い一般住居があり古い二階建ての瓦屋根の家もある。これが一斉に同じ時期に分譲されたニュータウンだと同じ世代ばかりになりかねない。写真に撮るのは、ぴかぴかな新しいものよりも時間を経たものが多い。建物でもなんでも、時間を経たことや時間の中で人が係わった痕跡が残る、そうなるとその被写体が大量生産された新品のときは同じものばかりだったとしても唯一のものに変わるだろう。その唯一になったものが撮りたいのだろう。・・・とか、書いているけど、上の写真はその類(たぐい)ではないですね。

 人を入れたスナップを撮るとき、そのお手本にはたくさん見て来た著名な写真家の写真がある。あるいはいろんな絵がある。富嶽三十六景で風に吹かれた傘を追いかける人がいるその構図やら。ピサロの絵の中で緑と光の中で暮らす点景の人達や。ユトリロの絵の中で街角を歩いていく人々も。その「見本」がパターン化されたり抽象化(印象化)され、そのパターンや印象に合致しているとそれを撮るべき光景と自分が定めて撮る。……のだろうか?そしてさらに選んだ写真をこうしてここに載せている。ではそういうパターンと印象で撮るべきと思い、いやもういちいちそんなサムネイルとの一致には意識的でもなく、オートマチックにここぞと思うしきい値を越えたらシャッターを押し、そういう風に撮ったたくさん(今日は600枚近く撮っていた)の写真からこの一枚を何故選ぶんだ?これはどのパターンでなんの印象を呼ぶのか?それをここに言葉で記してみようと思うと、なかなか浮かばない。「女性が俯いていてすなわちちょっとなにかに悩んで殺伐とした気分で、その殺伐さがこの緑がない都会の路地の殺風景と合致していて、見ているものに観光都市ではなく休日でもなく平日の東京の一瞬の殺伐を伝えている」などと適当きわまりないことを書いてしまえば、それでいいという気分になったりするが、実際はそんなことじゃないだろうな。結局言葉では説明できないところでこの一枚が「なんかいい」と思って選んでいる。でも女性の服が白と黒と無彩色で、たまたまだろうが俯いて立ち止まってるようで、そのなにかを待っているか、すなわち目的のために囚われているとも言える風に見えることがポイントなんだろう。

 代々木上原の駅近くの古書店高山羽根子著「暗闇にレンズ」と言う本を買う。少し歩いたところのカフェに行き、途中コーヒーをおかわりしつつ1.5時間ほど買ってきたその本を読んだ。抹茶スコーンも食べた。オーガニックなのかなんなのか、甘くなく柔らかくなくよく知らない小さな実が入ってる。食べてるうちに美味しくなる。ひとくちめは、えっ?と思ったのに。

 本はなかなか面白そうだ。面白そうだけれど、一気読みできるほどに本の中に引き込まれない。点火が遅い感じがする。←これは本ではなく読者である私側の問題。