白紙をはさんで

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 子供の頃、まだなにも描かれていない新しいノートに最初の字を、数字を、線や丸を書き始めるとき、きっちりときれいに使い初めて、そのノートが自分にとって大切で、かつなんとなく誇らしい自分だけのノートになっていくことを期待していた。あのおろしたての高揚感はよく覚えている。それから数ページ、ノートはきれいに進み、だけれどもいつかそれが破綻してしまうことも、使い始めるときから知っていた気がする。

 それから何十年も生きてきた。最初の字を慎重に書いた新品のノートに、やがて慣れてしまい、ときに書きなぐってしまい、そして後悔したノート。そういうノートのように、たぶん、なにからなにまで人生に起きる出来事は進むのだろう。それは「倦む」とか「慣れてしまう」からの失敗。でも「飽きる」とか「止める」ではなくて、倦んで慣れても、飽きずに止められないこともある。だから、ただだらだらと書きなぐり続けるのではなく、ひとつ途中に白紙の一ページを置いてから、ふたたび最初のページのような新たな気持ちを思い出し、するとまた新しいなにかが見えてきて、そこが原動力になって、再び続けることを選ぶこともある。もう最初の一ページ目の新入生の最初の登校日のような気分とは違ってしまっていても、その白紙の一ページを超えれば理解が進み信頼のようなことが生まれるときもある。なにからなにまでだ。なにからなにまでがこうして最初の新鮮さは失って変化がはじまる。その「なにからなにまで」の向かう先はそれぞれみんな違っていて、消えるものもあれば頓挫するものもあれば、新たな局面で続くこともあるだろう。

 この写真の壁、きっとなにか貼られていたり描かれていた壁だ。そういう古い壁なのに、最初の白かったときよりはもう使い古されて汚れていても、何も貼られも描かれもしていない状態は強い。始まりの終わり、そして、次の章が始まる、そういう清々しさを感じる。もう裏切らずに必ず・・・といった気持ちが生まれる。そういうのがいま必要だ。

 戦争終わりますように。