日傘

 テレワークで自室で仕事をしてるとき、すぐ横には本棚があり、そこにキャビネ判の印画紙が入っていた箱が本と並んで置いてあった。三菱月光やイルフォードのやフジの箱。その箱には、今は、デジタル以前のフイルム時代に撮って自分で引き伸ばしをした写真が入ってる。滅多に見ないけれど、久しぶりに開けてみたら、これは多分富士フイルムのGW645Sと言ったかな?セミ版すなわち6✕4.5センチのフィルムカメラで撮ったようだ、場所は横浜の山下公園、そこでスナップしたプリントがそのたまたま取り出した一箱に入っていた。その写真をミラーレスカメラにマクロレンズを付けて接写したのがこれです。1990年くらいだとするとこのお母さんが差し出した日傘の下に立って、海を見てる2歳くらいの女の子は、もう三十代になっている。当たり前だけど、古い写真を見るとそういうことを考えることになっていて、それで、もうこの子が大人になるくらいの年月が流れたんだな……とびっくりする。

 突然話は変わりますが、綺麗に直方体となるように刈り込まれた躑躅が満開の場所を歩いていて、まるでミルフィーユというのかケーキみたいだなと思う。毎年同じことを思う。なんか見てるうちにケーキの味まで感じてしまうくらい←比喩ですよ。本当は視覚からエセの味覚が立ち上がったりしないと思うが、いや、する事例もあるのかな。こんなに早く躑躅も満開を迎えるんだっけ?たしかに今日はとても蒸し暑かった。こういう蒸し暑い5月のある日も、実は毎年毎年何回かあるのだろう。なのにもう去年のことは忘れて、今日という日の天候に一喜一憂している。

 人類は今のことには夢中で、昔のことは忘れがちだったり無頓着で、未来のことは深く考えもせずに理由もなく安心してる。だから戦争を知ってる政治家たちの理解ほど、現役の今の指導者はその悲惨さや理不尽さを理解できないんじゃないか。たった1世代が過ぎただけで。忘れてしまわないように!忘れてしまうことは罪だ。忘れないから争いが起きず、忘れちゃうから争いがまた起き始める。

 個々人の誰かへの愛情のほうが、名もなきありふれた思いの方が、為政者の理屈や思い込みより、よほど真っ当だ。