あの日は風が強い日だった

 写真を見直していると、風が強く吹いていた日があったことがわかる。街路樹が表よりも白っぽい葉の裏側を明るく見せながら大きくしなっていると、カメラを向けたくなる。そういう写真は実際にそこに立って、木を見ていたときほどには風が写っていない。あぁ、もっと大きくゆさゆさと枝が動き、そのたびに葉が擦れるざざざっと言うような音がしたのに。そうして私の右の頬に風が当たり、分けた髪が持ち上がり、そして乱れたのに。その風に吹かれている感じはなかなか写らない。しかしそういう稚拙な写真であっても風が吹いていたことだけは写っている。風が吹いているとカメラを向けたくなるから、撮った写真はたくさんある。風の日は、海には沖に白波があちらこちらに立つだろう。昼間の太平洋をこの相模湾沿いのどこかの高台から見下ろすと、海はいつも逆光だ。そのきらきら輝く逆光の海にたくさんの白波が踊っているような風景を、たぶん何度も見ている。

 それなのに、いま、あの日は風が強い日だった・・・で始まる具体的な過去のある日の出来事の記憶がなかなか浮かばない。災害級の大風の日のことを思い出したいわけではないのだが。風の写真や、風が吹いていた一瞬の光景の記憶はいくらでもあるというのに。このブログにだって、車のカバーが風をはらんで膨れたり萎んだりしているその一瞬を撮った写真を何回も使っている。上記のように沖にたくさん白波が立っている海原や、それこそ風の強い日に打ち寄せる大きな波の写真もブログのどこかにあるだろう。葉裏を見せた街路樹の写真もあるし、街角で風に煽られた長い髪を、あるいは、飛ばされそうになった帽子を抑えている人たちの写真も載せた。だけどそれらは皆、ある日あるときに私が見ていた目の前の風が作った光景の記録であって、もっとなにかの出来事があった日に風が吹いていて、そのことが印象的に、出来事とセットで風が吹いていたなということを覚えている、そういう記憶が、出てこないのだ。

 たとえばの話。わたしは改札を出たところでAさんを待っている。Aさんは歩いて三分くらい離れた喫茶店Bでわたしを待っている。わたしは待ち合わせ場所が改札だと勘違いしている。本当は喫茶店Bで待ち合わせる約束だったのに。もう待ち合わせを十五分も過ぎてしまっている。今日はちょっと風が強い。改札を出るとすぐにバス通りがあり、そのバス通りの柳の街路樹が風に揺れている。今ならスマホでなにか連絡を取るだろう。当時はこういう状況になると、どうしたんだろうか?という不安ばかりだった。そのうち、もしかすると、喫茶店Bで会おうと、最後にそう決めたんだっけ?昨晩の電話で・・・と自分の勘違いに気が付く。電話というのは家電(いえでん)といまは呼ぶダイアル式の固定黒電話のことだ。とにかくBに行ってみよう、そう思い立つともう走り出していた。柳の木が揺れている下を、歩道に敷かれた正方形のブロックがところどころ欠けているところに引っ掛からないように気をつけながら、煙草を吸っている男をスキーの滑降のようにぎりぎりですり抜けながら、長い後ろ髪が日の光を浴びてつややかに光っている女を大回転のように回り込んで追い越して。 走る私の顔に水滴が何粒か当たった。見るとすぐ横の公園にある小さな噴水の水が風に乗って飛んできたのだった。男を抜き、女を抜き・・・もう少しでBに着く手前の信号が赤になってしまう。信号の向こうからは柳に代わり、そのバス通りのランドマークになっているような大きな欅の並木が始まる。夏が近づき、濃い緑の葉が大きな日陰を作っているその欅の下の歩道には丸い葉漏れ日がいくつもいくつも重なっては、水族館のクラゲのように揺れている。渡った先の最初の欅がゴオゴオと風を音に変えて、まるで動物が楽し気に声を上げているようだ。それにしてもいつまでも信号が青にならないから抜いて来た男と女も私に追い付いてしまった。男が信号で止まるとグレーのジャケットを脱いで右手の指先に襟の位置を引っ掛けて肩から後ろへ回し、よく磨かれた茶色の先のとがった革靴の先でトントンとリズムを取った。女は彫像のようにどこも動かさないでじっと信号が変わるのを待っているが、もちろんその長い髪だけは風を受けてときどき煽られた炎のように揺れていた。

 案の定、喫茶店BにAさんはいて、遅かったじゃない、とだけ言った。本を読んでいたらしく、わたしと一緒に店に入った風が本のページを捲って行った。そこには「青い服を着ている日には必ずあなたを誘った」という文章が見えている。Aさんの前には彼女が頼んだ透明なガラスの器に入った丸いバニラアイスクリームが置かれているが、そのアイスクリームの球体はずいぶん溶けていて形が崩れ、流れ落ちている。アイスクリームを食べたようには見えなかった。額から汗が落ちる。ごめんごめん、改札と間違っていたよ、待ち合わせ場所、と言い訳をする。溶けているアイスクリームを指さして、溶けてるよ、と言うと、Aさんは、なんとなくあなたが来るまでは食べたくなかった、それだけ、と答えるのだった。そんなときにふと視線を上げると、窓の外に見える欅がまた強い風で揺れて、喫茶店の窓からひゅうと音を立てて隙間風が入って来た。アイスクリームを食べずに待っていたAさんを、愛しいと思う。そしてもう一度彼女を見る。彼女は青い服を着ていた。

 これ、いまここででっちあげた作り話。なんかこんな風に出来事を風が演出していたという実際の記憶がひとつも思い出せない。だからでっちあげてみましたが、こんなんじゃなくって、絶対なんかあるはずなんだよなあ。

 写真は日曜の大船フラワーセンターで風に揺すられていた低木です。萩のように見えるけど、萩の花は9月頃だろうから、萩じゃないですよね?ではなんでしょうか?