蝋燭の光

 写真は京都六角堂です。

 蝋燭・・・誰かの誕生日に蝋燭を立てて、ハッピィバースデイの歌を歌ってから、ふぅーって息を吹いて火を消す、という定番の行為も、もう私はここのところ、そんなことをする機会に参加することもない。ところでそんな誕生日の習慣の意味は?と調べてみたら、あいかわらずちゃちゃっとスマホで検索なんだけど、ほらすぐに解説が出て来た。・・・という訳だそうです(調べてすぐ転記するのもなんだかなぁ、と思いました)。

 むかし、というのは半世紀くらい前のことだけど、今と比べるとしょっちゅう停電が起きていた。少しの大雨や大風で短時間、台風が来ると小一時間も。だからそういうときに備えて、懐中電灯と蝋燭は、すぐわかる場所に置かれていて、母がまず懐中電灯を付け、その光が照らした中から蝋燭を取り出し、マッチで火をつける。しばらく燃やして溶けだした蝋を空き缶かなにかに垂らして、固まる前に蝋燭をそこに立てた。停電が起きているからといって、なにか相当リスクが高いという気持ちにはならずに、ただ暗い中蝋燭の炎が揺れると自分や家族の、襖に映った影がゆらゆらと動くのが面白いなと思いながら、ラジオを聞いたり、わざわざ蝋燭の光が届く範囲に紙を持ってきて絵を描いたりしていたんだろう。それは、ちょっと日常ではないことから、楽しい時間であって、ずっと停電が直らなければいいのに・・・とさえ思ったから、停電が復旧し、蛍光灯がぱちぱちと瞬きするように明滅したあとにちゃんと点灯すると、なんだかそれまでとそこからが、非日常から日常へ、時間の断面があって、そこを乗り越えてしまったような気持ちになった。それは二時間の映画を観ているあいだにその画面と物語に引き込まれて感情移入し、映画が終わって外に出ると、映画館に入るときにはまだ明るかった外が、もう夕方に変わっていて、映画の世界がどんなに面白かったとしても、時刻が進んでしまったことに気付くと、必ずちょっとがっかりした、それに似て、停電が収まり、明るく灯った蛍光灯の下にまだ火がついている蝋燭を見ると、さっきまでの魔法のような光景を作ってくれていた光が、ずいぶんみすぼらしく見えたものだった。

 六角堂は(これもちゃちゃっと検索すると書いてあった)健康面でご利益があるそうです。

 そうそう、それこそ小学校の一年の頃、算数だったのかな、多角形を習った。角が三つが三角形、四つが四角形・・・六つが六角形。そのときに、五角形ではなく七角形や八角形でもなく、六角形がいいと子供の私は確信したようなのだ。この形はかっこいいな、と思ったのだろうか。ではなんでそう思ったのか、となると全く不明だけれど。その多角形を習ったのは、6月のことだった。と、はっきりわかるのは、6月生まれの妹が多角形を習っている頃に生まれたからで、父と私は、赤子(妹)の名前をどうするかを二軒長屋の縁側に座って、考えていた。父が真剣に字画の本を読んでは紙に鉛筆で候補の名前を書きだしていて、父にしてみれば私が一緒に考えているとは思ってもおらずただ邪魔している、くらいのものだったろう。でも私は私で真剣に妹の名前を考えていた。そして、多角形は、とくに六角形はかっこいいんだ、というところから天啓のように閃いた最高の名前が「六角子」(ろっかくこ)だった。そこで父に早速提案したのだが、相手にされなかった。こんなことを今も覚えているのだから、いい提案をしたと思ったのに即刻にダメ!と言われ、がっかりしたってことだろう。四角四面という堅物を言うような言葉があるけど、それが五、六、七、八・・・と進むと、円に近づくからだんだん「角が取れて丸くなる」方向だろう。実際丸くなりすぎるのと四角四面の中間であって六角あたりがいいんじゃないか・・・それでも「六角子」なんて名前は聞いたことがないな。