9年前の7月

 2013.7.20.に私は鎌倉を散歩、というより猛暑のなかそれでも写真を撮るんだ、という気持ちを「それなりに」持ちながら一生懸命に歩き回っていた。その日に撮った写真を見ていても、意外と暑さや辛さは思い出さないが、たしかにこの光景に向けてシャッターを押したなということは結構覚えているものだ。だけどこの写真は覚えていませんでした。

 9年前の肉体をいまの私に、9年後のいまの肉体を9年前の私に、交換すると、どう感じるんだろう?身体が動かない・・・、すぐ疲れる・・・など、あるいは目がしょぼつくなあ、なんか変だなあ、と、9年前の私は思うだろうし、いまの私は、これならなんだって際限なく出来そうじゃないか!と感じるのだろうか。徐々に変化することはなかなかわからない。そんなに変わってないのかもしれない。

 今日はテレワーク。コロナ感染者も急増し、猛暑も続き、一日家にいたのでたぶん200歩も歩いていないんじゃないだろうか。よくないですね。

 写真に写っているのは江ノ電の古い車両。この9年前の時点でけっこう傷んでました。いまはどうなっているんだろう。木造車両を雨ざらしで静態保存するのはちょっと無理があるな、痛々しいな、と思ったものです。

 

 私の本棚に20代(もし発刊年に読んでいたとすると19歳だったのかも)に読んでいまもまだとってある本の一冊に北山耕平著「抱きしめたい ビートルズと10000時間のテレビジョン」という大和書房の本がある。当時の宝島だったかビックリハウスだったか、そういう若者ターゲットのサブカル雑誌に連載していたランナウェイ・キッズというエッセイ?ショートショート?や、そのほか書下ろしの文章が収めてある。この江ノ電の旧車両が置かれている公園の写真を見て、そういえばその本に(捨てずにとってあったが何十年も読んでいない)がらがらの江ノ電に乗って、他の乗客の心のなかに入り込んで(そういう能力がある主人公)いるうちに、一人の乗客、若い女性にも同じ能力がありテレパシーで会話をするという話があったなと思い出した。それでいま、その古い本を探して読んでみた。主たる女性とのテレパシーの会話はさておき、男の子が初めて恋に落ちたとき、世の中の見え方が変化するようなことが書いてあるところが面白かった。

『ひょんなことからいとも簡単に恋におちいったりするのだろう。そのとき、やっと、自分が、いま、ああして運転手の後にすくっと立ち、なぜだかは知らぬが身体のいちばん奥深いところから湧き上がってくる不思議な感動に身震いしながら、あたかも眼の前で次からつぎへと切り裂かれていく風景という名の空間を、しっかりと大きく見開いた驚きと喜びのいりまじった目で、ありありと記憶のうえに焼き付けつつあるのかを、そのことがおぼろげにではなく大いなる確信を持って理解されるにちがいない』(江ノ電の運転士の後ろに立つ少年に対しての文章)

同じ風景でも気持ちの持ちようによって見え方が変わるなんて当たり前であって、でも定量的に科学的には当たり前ではなく同じ風景だろう。

 風景は人の目が見ている以上は、いつも変わっている。