言葉にならない気持ちの発芽

 神奈川県の相模湾に面した平塚市と中郡大磯町の境界あたりにある丘陵の上の湘南平と呼ばれる公園から南を見れば太平洋が広く、北を見れば新幹線が白い一本の直線となって行き交う相模平野の田園地帯と住宅地が入り混じった街が見渡せる。平野の向こうには大山丹沢国定公園の山が見える。たまに写真を撮ろうと、自家用車で登ってみる。このブログにも登るたびに写真を上げてきた。一番最近だと4月の満月の日に湘南平から撮った写真を上げている。今朝、3ヶ月ぶりに行ってみた。真夏の快晴の日にしては空気が澄んでいる気がした。相模湾には相変わらず大きな波が入っている。海岸線の形に添うように次の波、その次の波が逆光に白く輝く線になって、こういう高い場所から見ると思いのほかゆっくりと 砂浜に向かっている。

 波は大勢で手を繋いで横になり進む(戻る)花いちもんめ遊びみたいだ。小さい頃、それこそ幼稚園の頃、花いちもんめ遊びで次に指名する相手一人決めるのは苦手だったと思う。じっとみんなの相談を聞いて、指示通りの名前で誰々さんが欲しいを歌っていただろう。

 日本のロック黎明期のバンド「はっぴいえんど」の「はないちもんめ」、作詞はもちろん松本隆路面電車の線路がある路地を駆け抜ける子どもたちは、紙芝居やの物語に夢中になり、物語を聞いたあとにはそれぞれがヒーローになって、土埃なんのその、路地を七つの海に見立てて、遊び回る。その向こうには工業地帯のたとえばお化け煙突が見えるが、いつもの灰色ではなく、色がついて見えるのはそれもヒーローだからだ。そんな感じに読み取れる歌詞。私の世代よりもう十歳くらい上の方にはリアルな体験だったのだろうか。

 木村伊兵衛土門拳が昭和20年代の東京を撮ったスナップには子供がたくさん写っていて、たまには親御さんが写っていたかな?もうほとんど子供だけの世界で遊んでいますね。私の子供の頃(昭和30年代40年代)でも、22人で2チーム作って草野球することは出来なかったけれど、十人で五人づつに分かれて外野は一人、内野は二人、あとは投手と捕手からなる三角ベース草野球もどきは、可能だった。広場は何箇所かあり、ボール遊び禁止とかなんとかの制約なんかなかったですね。その代わりいつでも、大抵は膝小僧だったけれどかさぶたを作ってました。

 電子ゲームはまだ当然なくて、室内のゲームと言えばトランプや双六や、その発展系の、ボール紙でできた折り畳めるゲーム板を畳に広げてサイコロを振るようなものだったが、そんなのはあんまりやらずに、室内でも友達と相撲をとったり、しまいには流行り始めたモンキーズのシングルレコードを掛けてゴーゴー踊りごっこ

 これ、あの頃は良かったとか、いまは駄目とか言いたい訳では全然ないですよ。誰にだって時代時代の遊び方の標準があってその世代に生まれればそれで遊ぶに決まってる。強いて言えばいろんなことが変わるもんだ、ということだ。

 だけど、そんなふうに遊んでいた子供の頃にも、私はときどき、ふと一人になりたいときがあった。室内ではなくて外にいて、別に遠くの知らない街に行きたいとかではなく、いつもの近所で十分なのだけれど、友だちは今日はいらない、一人の時間が良い、という、こう書くとずいぶん自分勝手な感じ。それっていつも、季節を少し先取りしたような、春なのに夏のような日、夏なのに秋のような日、秋なのに冬のような日、そして冬なのに春のような日が多かったようだ。もう一つ、そういう日には強い風が吹いていた。そうして一人になれたとき、なにを考えていたのかはもうわからないが、具体的な未来計画や、いまの仕事のやり方で教えてくれるPDCA ~プランしてドゥーし、チェックして次のアクション~ のような理論だった思考や行動というより、人間の遺伝子に記憶されているなにかの衝動に根差すようなものだった気がします。ここではな いどこかへ、新しい何かへ、一人になり風に吹かれて、そういう言葉にならない疼きのような種から言葉にならない気持ちの発芽が自分の心のなかで起きるのを、その一人になりたいという気持ちが突いて促していた気がする。

 人類がアフリカで生まれてから、寒くても、山があろうとも海があろうとも、そこを越えて世界に広がって行った、その力の源って何だったのか?好奇心なのか、それとも先行し敵対し良好な領土を持っている相手から逃げつつ、別の領土を確保したいというようなグループの欲が最初からあって、そこからの止むに止まれぬ行動だろうか?前者、好奇心に突き動かされてならかっこいいが、後者だと人間の限界があり、戦争ななくせないという失望を感じたりもする。だけどそうでなければ現代には至らず人類はどこかで滅亡していたかもしれないし。大抵は二者択一ではなくて両方ともそうなのだろうな。好奇心もあり所有欲もある。

 波の線が「はないちもんめみたいだな」からはじまって、なんでこんな、人類の限界なんてことに話が進むのか。我ながらアレレ?って感じ。

 コロナでの制限が長期に亘るのは、経済がどうのこうの以前に、人の精神の自由さ、その多くは若い人たちが引き継いでいる、その自由さへのダメージが大きいかもしれない。吉田拓郎の「古い船をいま動かせるのは、古い水夫じゃないだろう」という言葉があります。古い水夫じゃなければ当然、新しい水夫だ。新しい水夫は古い船を改造したり新しい船に変更したり、解体して新造したって、自分たちが動かしやすいようにすればいいのだ。

 上の写真は最初に書いた湘南平から平塚市の砂浜を600mmの望遠レンズで撮ったうえでさらにトリミングしています。たぶん1000mm超望遠くらいの画角。本当にちっこいけれど、人がぽつぽつ写っています。サーフィンでまさに波に乗っている人も一人。こんな丘陵の上から眺めた風景のなかに土曜の午前を砂浜で過ごしている人たちが見えて、その風景が安心の源のように見えました。