声が掠れる

 11年前の9月のある休日、来宮伊東線で熱海の次の駅)まで電車で行ったのは、その頃読んでいた井伏鱒二の短編集に、生きた鰻を土産に熱海(来宮)の双柿舎に行ったが、到着したときには鰻が死んでいた(以上、うろ覚え)というあらすじの短編があり、それでその物語の場所に行ってみたくなったからだ。だけどその双柿舎のことは覚えていない。なんとなく休館日で入れなかったような気もするが、入ったような気がしないでもない。そのあと坂を下って、熱海の古びた温泉街を適当に路地を選んで歩いた。その散歩のときに撮った写真のなかに上の写真があったので拾い出した。こんなトタンの壁の家がある路地はもうすっかり変わってしまっているのだろうか、とふと思う。11年前なんか、ついちょっと前のことに思えることがあれば、はるか昔のことのようにも思える。

 今日は在宅勤務。ただ自室のPCの前に座り、資料を作ったり、会議時間になっているのを忘れていて催促の連絡が来て慌てて会議に入ったり。会議でなんか発言をしながら第三者的に自分の言うことや声を聞いている別の自分が「ずいぶん声が掠れて、声の変化がいちばん、年齢を感じるぞ」と忠告してくれた。

 1970年代のフォークソングにトタンの屋根に雨が当たってあなたの話すことが聞こえないというような歌詞の曲があったように思うのだけれど、それがなんの曲かわからない。