癒しのための機械に触れた秋の日

 (昨日に引き続き展示の鑑賞レポート的です)

 鉄を使って自分で考え出した楽器を制作し、鉄が奏でるかろやかで美しい響きを届けてくれる飯田誠二さんの展示を見に、茅ケ崎市のカフェBRANDINまで行ってきた。本日最終日。夕方からの演奏会の準備で人が大勢出入りしている時間だったが、いくつかの作品の構造や扱い方をご本人から解説いただいた。飯田さんとは二週間か三週間まえに、良く行くスペシャリティコーヒーのコーヒースタンド(フラワーコーヒー)で偶然初めて会い、DMをもらっていた。

https://www.instagram.com/seijiiida/?hl=ja

機械には目的があって作られる。その目的の多くは便利のためだ。素手の変わりにハサミやかなてこやペンチやピンセットがあって、素手では出来ない作業をやってのける助けになる。歩いたり走ったりでは行き着けないどこかまで自分の力で行けるように自転車がある。人が便利を求める欲があるから、機械が革新され生まれ続けてきた、と一義的に定義していいとは思わないけれど、そういう側面が「強い」のは事実だろうな。

 だけど楽器という機械は、便利をもたらすと定義されるだろうか?もちろん様々な音色で重層的に音楽を奏でられるよう、それを果たすという「便利」のためにさまざまな楽器が生まれたとも言えるのかもしれないがちょっと違う気がする。例えば「癒し」を直接もたらしてくれる楽器は、成り立ちが便利のためじゃない。同じ楽器の発展の過程では便利のための機械の革新があったかもしれないけれど。操作がシンプルで誰もがその機械を操作することで成り立てば、癒しにはそれが一番であり、楽器演奏という操作難易度や習熟度により、ヒエラルキーが発生するような競争原理から遠ざかる。

 飯田さんの手回し万華鏡 ~鉄のもたらす爽やかな音が同時に響く~ をのぞき込み操作していると、操作の感触や回転速度と万華鏡の視野が動く連動の感覚や、万華鏡が動き出すまでのあいだの空転の待ち時間の設定や、そういう機械設計の成り立ちの全てが、それを操作して「よろこび」「たのしみ」「いやし」が得られるように出来上がっている。便利じゃなくてよろこびやたのしみやいやしをもたらしてくれる機械がありそれを操作出来たことが素晴らしく嬉しかった。戦争に勝利を簡単にもたらしてくれる究極の便利が殺戮兵器という機械であるのなら、それが行使されるんじゃないかと暗く哀しい気分になりがちな秋の日に、こういう手造りの機械だってここにあるんだということが勇気にもなった。構成されるのは中学校で習った、梃子の原理や歯車の原理や直流モーターや摩擦の応用。そういうカラクリだ。SLの動輪やロッドの動きを見ているとかっこいいし擬人化して見えてくる。それと同じで連動機構を見るとわくわくする。

 茅ヶ崎駅から会場までの往復を歩く。秋の午後の日差しはもう長い影をこんなに作るのかと思いながら、往路は少し慌てて速足で、帰路や心が軽やかだからやはり速足で歩く。写真は帰路に撮ったものです。帰路、今日もまたそのコーヒースタンドに行き、スマトラのホットを飲む。この店は店内になんとなく常連って感じの人がいつも二人三人は集っているが、同じ客にぶつかることは滅多にない。よほど常連客がたくさんいるのかな・・・。今日一緒になったわたしと同じ年くらいの年配のおじさんが話している内容から、あれ?もしかして同じ高校の出身の方かな?と思い、聞いてみた。すると同じ高校の卒業生だった。次に卒業年度を聞いたがうろ覚えだったので、自分とおじさんお誕生日を照らし合わせたら、驚いたことに同学年だとわかる。えっ!高校は11組まであり、400人以上が同学年だったから、もちろん全員のことなど覚えていない(当時だって知らない人もたくさんいた)。ところがおじさんがしばらく私の顔を見て「岬(岬はハンドルネームなので実際は実名)さん?」と言うではないか。「そうです・・・あなたは?」名前を聞いて、当時話したことはなかったけれど、そういうやつがいたことは思い出せた。卒業してから47年かな・・・偶然は必然のひとつでたまたま特異性を感じる必然のひとつのかたち、とかよく思うし、そうだと今も思うけれど、だけどこれはびっくりの偶然だった。