実体を探すこと

 雨、降ったり止んだり。低い雲。それでも寒くはない日。明日はだいぶ冷えるらしい。自家用車で出勤する朝5時半前はもう真っ暗だ。駐車場からバス通りをはさんだ反対側の小さな畑から、相変わらず虫の声が盛んに聞こえた。

 夕方、残業をせず定時に帰る。片側三車線の幹線道路の赤信号で停まり、中央分離帯に植わっている樹影の丸い木を見たら、オレンジ色の花がたくさん付いている。それでその木が金木犀だったことに気が付いた。車で通勤するようになって三回目の秋なのに、咲く花に気が付いたことがなかった。赤信号のうちに運転席の窓を開けてみる。すると金木犀の花の匂いを嗅ぐことができた。

 声は聞こえるのにすぐに姿を見つけられないのは春のヒバリ。でも、見上げて探していると、空を背景にとうとうヒバリを見つける。いちど見つけてしまえばもう見失わない。ヒバリは、ばたばたと水泳教室の初心者のようにあたふた飛んでいる。ヒバリが畑に降りてくるときもまるで回転が止まった竹トンボのように落ちてくる。

 香りがするのに花が見つからないのは秋の金木犀。いや、ほとんどは香りがしてすぐほらそこに、金木犀の花も見つかる。あるいは花を見つけて、同時に香りがする。だけどつい先日、香りがするのに、とうとうどこから香っているのか、花を付けた金木犀の木を見つけ出すことが出来なかった。

 ヒバリの囀りや金木犀の香りから、視覚でヒバリや金木犀を見つけようとする。見つかれば安心だが、囀りや香りだけで視覚がそれを視認しないと、なんとなく気配だけのようでもどかしい感じがする。もどかしさがずっと続いた方が、本当は囀りや香りを聴いたり嗅いだりしている時間が長い。もし見つけてしまえば、それでもう一段落で興味は次に移る。ならば実体が見つからない方がもどかしさにより惹きつけられるんじゃないか。いろんなことに当てはまりそうな話。

 写真は一週間とちょっと前に大磯町の漁港付近。