オールドレンズに光を司る小さな人が住んでいて・・・妄想

 土曜日、快晴。とても暖かい日になった。数日前に「体感としてこの冬一番の寒さの日だ」と書いたばかり。三寒四温を繰り返しながら、季節は春に向かっている。感覚として季節の方が確実に春に向かっていて、私自身は冬に取り残されている感じがする。だから今日のような日に菜の花や梅の花を見ることは、見たことによって、ほら!もう冬じゃないんだぞ!とばかり、季節に遅れた自分が季節と同期するための刺激になるようだ。

 半世紀くらい前に造られた50mmF1.4(購入した中古カメラにおまけのようにくっついていたレンズ)を開放にして撮った写真は思った以上にソフトに写った。これがその型番のレンズが総じて皆こう写るものなのか、この個体だけが使われてきたなかでどこかにガタが来てこう写るようになったのかはわからない。人間と似ているなと思った。若く元気な人たちは健康診断でも総じてどの項目でもAが付く方が多いだろう。だから「健康さ」のばらつきが少なくて、しかも健康度合いの平均値も高い(健康な人が多い)。レンズに置き換えると新品または新品同様で高性能だ。だけど年を取って来ると、みなどこかしらガタが来ていて色んな項目がほぼ問題なくAという人は少なくなる。だけどどこにガタが来るかは、ひとそれぞれ、すなわち不完全さにおいてその理由が多岐に亘る。繰り返すが「ガタが来ているのはみんな同じ、どこにガタが来ているかはひとそれぞれ」という感じ。オールドレンズももはや新品と同じ写りをするものは数少なくどこかしらガタが来ているが、どこにガタが来たかはその個体個体の時間のなかでどう使われてきたかに依存する人生ならぬ「レンズ生」の結果だ。その「レンズ生」を垣間見るようなソフトな描写をする個体なのだった。どの個体がどんな写真をもたらすかは、だからオールドレンズになればなるほど、ばらつき幅が広くなるんだろう。

 そんなことより逆光のゴーストが虹になって画面のど真ん中にどかんと写っている。こういうのを見ると、カメラというより写真機とか暗箱と呼びたくなりませんか?真っ暗な箱に一瞬だけ窓を開けて光を取り込む。その刹那の光が、ちょっと暴れ馬になって暗箱の中を、目に見えない光速ではあっても、玉突きの玉が何回かぶつかって向きを変えるように飛び回り、その飛び回った証拠がこの虹なんだ。そう思うと、一枚一枚の写真が箱の中に光を導き、それを生け捕りにしているような印象が浮かぶ。すると今度は箱のなかに小さな小さな光を操る人が住んでいて、写真になるように魔法をかけて光を司どっているような妄想も浮かぶ。

 こんなのは最新の機械だとなかなか浮かばない妄想で、この虹が写ったソフトな写真を見ることによって、浮かんでくる。