廃車に宿る物語を感じて

 電車の窓から外を見ていて、気になった場所に休日に行ってみることはときどきするけれど、気になった場所があることは忘れていて、たまたま行ったことのない道をなにかの経緯で歩いていたら、線路沿いにそういう場所が現れて、おーっとここだったかぁ!と思うことは、滅多にないけど、このときは、あった。電車から見えるのは、この廃車が玄関先に置かれている廃墟(なのかな?)の、写真の右側からフレーム外にある道を左に曲がった、すなわちこの写真の背面側の壁で、茶色い窓のない壁に屋根は三角で、偉容な、あるいは異様な感じがするので、通り過ぎる窓から見ては気になっていた。歩いていて、おぉここか!と思ったあとに、壁を過ぎて右に曲がったら、この廃車が現れた。

 廃車を見るのは「夢の跡」という感じがするからか・・・よく考えると悲しかったり、寂しかったり、むなしかったりするものなのに、それなのに、どうして被写体として、そこを撮りたい!と思うのか?この件は、このブログにも何回か「なんでだろう?」って書いた。人が使って新品でなくなったものに味わいや歴史や痕跡が残る、それでも使われ続けているのは美しいだろう。だけどその美しさが、そのあとやむを得ず、あるいは思いかけず放棄され放置されるのは悲しい物語であり、だからただのゴミではなく、ここにあった物語に思いを馳せるきっかけなのか、それはハッピーエンドではないかもしれないけれど、旅人が目の前に現れるそこここに、流れたときの痕跡を通過する視線で受け入れ学ぶときに、それは濃密な誰かの痕跡なのかもしれない。そんなことをいちいち考えるわけではないが、だから写真を撮る。

 実際、ここにその写真家達の名前はいちいち挙げないけれど、あの写真家もその写真家も・・・打ち捨てられていた車を撮っている。そしてそれらの写真はたいていは旅をしながらのスナップの一枚のようだ。旅人の視線は意外に冷徹なのかもしれない。

 キヤノンA1 FD28mmF2.8