余白を差し入れる

 写真は昨日、12/4日曜日午前の茅ケ崎市の公園。欅だろうか、あるいは樫とか楢だろうか、葉をほとんど落とした木々の枝の影が長く伸びている。冬の日の高さは低いけれど、葉を落とした枝はのあいだに日が抜けて、長い樹影が伸びている。石に浅く腰掛けてポケットに手を入れた黒いジャンパーを着た男性を画面のこの位置に置いて、木々の幹があまり重ならないように左右の位置を少し調整して、画面が暗くなり過ぎないように露出を補正して、犬を連れた男性の位置を見ながら、このコマの前に一コマ、後に一コマ写真を撮った。写真を撮るということは、こういうふうに、なにか基準や規範に基づいて(この場合は)落ち着きがよく、広く冬の空気が写るように、カメラを操作し画面構成を作っている。まぁ大した手間もなくちゃちゃっと撮るわけだけれどこうして写真を撮りながら、写真を撮るという行為は一体なんだ?と思うところがある。ここに写っている二人の男、なにかひとつのことを深く考えているのか、それともただ五感から入って来るこの場の情報に身を任せて、ただ受け入れてぼんやりしているのか(←これが出来るのはすごい!)。犬の散歩のときに人は、もちろん犬に意識を向けてコミュニケーションをとることで楽しんでいるかもしれないが、犬に引かれながら、やはりなにか静かに考えたり計画をしているのかもしれない。写真を撮ることにあれこれ忙しい私よりも、彼らのような過ごし方に憧れるような気分が起きるが、かといって出来ないから、また次の写真のためにきょろきょろしてしまう。だからせめてある場面で写真を撮り終えたら、次にここを撮ると決めるまでのあいだに、ちょっと写真のことは忘れて深呼吸をしたり、青空に飛行機を見つけてどこかへ旅に向かう人のことを思ったり、鳥の囀りに耳を澄ましたり、かさりとうごく積もった落ち葉を踏む自分の足音を楽しんだり、そういうことに意識的でいようじゃないか。すなわち余白を差し入れる気分で。

 この季節がやって来るとサイモンとガーファンクルの「冬の散歩道」が頭の中を流れることがあります。