いつその本に、いつその音楽に、出会ったか

 写真は今日、4月2日の鎌倉八幡宮の参道にあたる段蔓の桜並木が鳥居の向こうに見える場所で撮影。場所・・・は横断歩道を渡っているちょうど真ん中あたり。一瞬だけ立ち止まり、写真を撮り、すぐにまた渡り切った。天気は曇り、時刻は昼下がり、昨日よりは確実に寒かった。写真の桜の花はまだ満開のように写っているが、もうだいぶ散っていた。この先には鎌倉八幡宮があり、そこまでは行かずに途中で引き返した。

 それからいつも行く由比ヶ浜通りの古書店に寄った。鎌倉に着くまえにカフェに寄って、読んでいた長嶋有の本を読了した。家に帰れば未読の積読タワーがあるけれど、活字中毒者としては、どこかに外出しているときにバッグの中に読書中の、あるいはこれから読む未読の本がないという状況が落ち着かない(笑)。それにしてもこの古書店は昔ながらの古書店のまま、変わらず営業している。そして大勢ではないが、いついっても数人の客が店内にいる(もっとも私が行くのは土曜日曜のことが多いから、平日の様子はわからない)。目に入った本を数冊手にする。最新の人気作家の本も少しはあるが、十年か二十年、あるいはもっと以前に読まれた本が多い。買った本は久世光彦著「百閒先生月を踏む」(文庫初版2009年)と中原昌也著「あらゆる場所に花束が・・・」(文庫初版2006年)。以前は気さくな、おばちゃん(お婆ちゃんかな)が店番をしていたが、もう何年もお姿を見ていないから、引退されたのだろうか。

 以前もこのブログに書いたけれど、本棚にずっと残っている本があり、面白かったものの読み終わればBOOKOFFに売る本がある。結局は残している本も再読することは、ゼロではないが、ほとんどない。そして残してある本は、最近読んだ本は少なく、20代~40代くらいに読んだ本が多い。読んだときに大きく感情を動かされた「良い読書」が起きるのは本の良し悪しというより、読者が本から受ける感受性というか感受力があるか?の方が支配的だと思う。だからどの世代も十代二十代三十代に親しんだポピュラーミュージックにその年ごろにたくさんの刺激を受けて、年を取ってもその頃の楽曲が「いい」と思うわけだが、本当は「いい」というより「世代に合致した」というフィルターがまずあり、次に個人の物語が関与していたかという記憶にまつわる話があり、そこに個人個人の嗜好も加わったのちに「いい」「好き」が決まっている。まぁそういうことが音楽だけではなく本にもあるのだと思う。

 今日買った二冊は、そういう年齢のときに出会わなかったから、たぶん読んだ後はBOOKOFFコースに行くのだと思う。本当は、今も昔もある一定の割合で大事な本が残るのがいい・・・いいというよりそれが自分の感受性のバロメーターなのだとすると、そうなるような読書をしなきゃならないのかな?最近は芥川賞受賞作を率先して読まなくなってしまったなぁ。以前は必ず読んでいて、大抵はなんらか「面白い」と思えたものだ。よく「最近の受賞作はつまらない」ということを言う人もいるけれど、それ簡単に言ってしまっていいのでしょうか?あなたの読書力が時代に置いて行かれてるってことかもしれない。「最近の受賞作を楽しく読める力がもうない」じゃないのかな。まぁでもそういうものだから、と自覚できれば、それでいい、ともいえるわけで、頑張らなくてもいいという考え方もある。自覚せずに「あの頃のが一番だった」を個人(がその年齢に合致していたから)ではなく全体論(誰にとっても××年代がいちばんだったと定義する)に敷衍して主張するのは、違うでしょ、と思います。