四月の朝日

 四月の上旬のとある朝、六時過ぎ。日が昇り30分。さっきまで自家用車の中で聴いていたラジオではサイモンとガーファンクルの「四月になれば彼女は」が流れた。四月にやってきた彼女は八月には死んでしまい、九月に僕は彼女を思い出す・・・。昔からこの歌詞の意味がよくわからなかった。とても短い恋のことを歌っているのだろうか、と漠然と思っていた。ネットの時代だからちゃちゃっと調べると(そこに書かれていることが本当かどうかはわからないものの)アメリカでは8月で学年の終業の月なので別れの月だ、とか、この歌詞の下地には別の詩人の夏鳥(春に渡ってきて、夏を越して、北へ帰って行く)の詩がある、という解説が見つかった。四月に始まり八月に終わり九月に懐かしむ恋を、上記のように私は「短い」と書いたけれど、そんなのは大人の(あるいは老人の)時間感覚であって、若い頃には、四か月や五か月というのは、とても長い時間で、たくさんの出来事が起きて、いろんなことを学んだんだろう。

 と思ったときに、村上春樹の「風の歌を聴け」は何月から何月の話だっけ?と気になった。するとこれまたちゃちゃっと調べることが出来て、1970年の8月8日から26日のことだと書いてあった。その間に鼠と僕は酔っぱらってフィアットでひっくり返って相棒になり、小指のない女の子も酔っぱらって僕の部屋で眠り、ラジオリクエストではビーチボーイズのLPを巡るやりとりがあり、むかし付き合った女の子の灯台の下で撮られた写真のことを思い出し、ジェイズバーの床には落花生の殻が積もって行く、こんな風にいろんなことが起きる。

 たしかに・・・自分のことを思い出しても、学生のときの夏休みの、例えば二週間のあいだ、毎日毎日誰かと会ってはなにか新しい情報を得たりしながら過ごしていたから、短くも長い有益な夏が誰にもあるのが若い日々なのかもしれない。そう考えると、四か月や五か月は若い恋にとってはいろんな物語がジェットコースターのように起きるのに十分な期間で、それを夏鳥に例えたのがポール・サイモンの詩というわけなのか。

 この写真は朝日を受けた都会。写真を見ていたら、今度はサニー・デイ・サービスのmugenというアルバムに入ってた「太陽と雨のメロディ」という曲が浮かんだ。まったくもうなんてこった、そんな何年も聴いていない忘れてしまっているような曲が不意に浮かぶメカニズムっていうやつは!人の脳のなかのシナプスの連動というのは、いつも同じ判断を繰り返す定まったアルゴリズムがあるのか?あるとは思えないな・・・いや、仮にあるにしても、写真を見たというインプットだけじゃなくて無数のここに至る条件の結果その曲が出てくるのだろう。違う日にこの写真を見ても別の曲に結び付く。いや、ここにこうして明示して書いてしまった以上は、もうこの写真にはサニーデイが結びつかれたかもしれないが。

 ビルの隙間のいちばん向こうに白く写っているのは海なんですよ。