昨日は十四番目の月

 昨日、5月3日の快晴の朝、陽の光は均等に街を照らす。人がたくさん歩いて行く駅や最新の駅ビルも、その最新の駅ビルに圧される形で客筋が途絶えている開店前の古いビルの駐車場のスロープにも。その光に照らされた街を、ほんの気まぐれのように、1970年代のFD50mmF1.4レンズを開放で撮ってみる。私の使っているフルサイズセンサーのミラーレス一眼の最高シャッター速度は1/8000秒で、開放だと最低ISO感度にしても1/2段ほど露出がオーバーになってしまうが、それで余計にオールドレンズのフレアが、暖かい光の熱が光景に沁み込んでいるように写るからそれでよしとしよう。

 そんな街をカメラをぶら下げて一人で歩きながら、時刻は昼になり昼下がりを過ぎる。夕方になって餃子が美味しい中華料理店に入る。テーブル席はぜんぶ予約で埋まっているようだったが、一人客はすんなりカウンター席に座ることができる。青島ビールを飲み、前菜の豆腐とピータンのサラダをゆっくりと食べる。ずっと自室の本棚に収まったまま、だけど買ってから一度も読んでいなかった阿部昭の「緑の年の日記」を読み始める。やがて半チャーハンと焼き餃子が目の前に置かれた。

 薔薇の花が咲いているのをずいぶんと、あちらこちらで見つけた日だった。餃子を食べるときにお好みで使ってほしいと刻んだ青唐辛子が小皿で焼き餃子と一緒に出てきた。酢胡椒を作ったが、一つ目の餃子は酢胡椒は使わず、青唐辛子を餃子の上に一つまみ載せて、口に放り込む。あぁ、そうか。これで餃子はちょっと爽やかに変身するんだな・・・

 外に出て空を見たら、あと一日で満月になりそうな月が見えた。十四番目の月・・・ユーミンの古い歌がある。いつぞや、だれかに、その意味を聞かれた。次の夜から欠ける満月より、まだ満ち足りないような求める気持ちが続いている心の状態でいたい、それを十四番目の月に例えているんだろう、と説明したと思う。その曲のメロディをなんとなく頭のなかで歌いながら駅へと歩いた。

 以上が5月3日のこと。そして今日、5月4日は満月がぽっかり浮かんでいました。夕方ベランダに出て600mm(相当)の超望遠手持ち撮影をして、さらに少しトリミングしたのが下の写真です。

 以下、写真の技の話なのですが・・・望遠レンズで月の写真を撮るときに、こうして表面のクレーターや月の「海」の作る模様を残したいときは、晴れた昼に写真を撮っているのと同様のシャッター速度と絞りの組み合わせになります。夜空に浮かぶ月は小さな真円だけど、そこだけに限ると昼間の明るさを持っている。そりゃそうか、昼間の地球と同様に、太陽の直射日光を受けている昼間の月を、たまたま地球上の暗い夜から見ているだけなんだから。ズームをすると月が画面内に占めている大きさがある割合以上になると急にカメラが表面の模様が写る露出に変えてくる、それまでは周りの空にちょうどいい露出を選んでいたのに。

 今日の満月はなにもない快晴に浮かんでいたけれど、周りに雲がたなびいていたり、月が朧ろに見えている、そういう地球側の都合で出来ている風景をこのクレーターや月の「海」の模様と一緒に撮ろうとすると、人の目には両方がちゃんと見えているのに、デジタルカメラ的にはなかなかそれだけの広い諧調を残すのが難しいですね。なのでスマホがよくそうやっているたくさん撮って、微妙に位置と倍率を調整しながら複数の露出を変えたり焦点距離を変えたりした写真を重ねる作戦、もうスマホの中でCPUが凄い勢いで走り回って仕事をする画像処理作戦があるんだけど、なんだか慌てて頑張っている。もしかするとスマホの中のCPU(最近不足不足と言われたり、台湾で製造しているから戦争が起きるとやばいと言われたりする半導体の一種ですね)は、被写体が月だと認識して、月の写真となれば多くの人間様はこういう写真を撮りたいんでしょ、知ってるわ!とばかりに、最大限のホスピタリティを発揮してお求めの写真に作ってくれる。ごくろうなことです。

 それで、月に限れば、こうして写真を撮っておいてなんなんだが、目で愛でるのが素敵ですよ、と思います。夕刻の風を感じて、周りの微かな生活音に耳を澄ませて、月を見上げて思いを馳せる。なにの思いでしょう?単純に、ちょっとお腹が空いたからなんか食べたいな・・・たまには贅沢して鰻でも食べに行こうかな・・・程度でも。この写真だって周りは真っ黒だけれど、本当はもう少しいい感じのブルーの空でしたが、クレーターや月の「海」を写すと周りはこうなっちゃうんです。

 付け加えると、周りの空とクレーターを同時に同じ露出で写せるときもなくはない。時刻によって両方の最適露出がバランスするときもあるんですけどね、滅多にそういうときに写真を撮ろうと思わない。