時間は早く過ぎる

 かなりたくさんの写真を撮っている方だと思うが、それでも日々のブログに使う写真がなかなか選びきれないことも多い。そういうときは、ハードディスク装置にアクセスし、過去のいつかの日にデジタルカメラで撮った写真を見に行く。この写真は昨年の6月(・・・比較的近い過去だ・・・)に撮ってあった。

 在宅勤務で早朝から夕方までずっと自室にいて、仕事が一段落したときにPCモニターから、ふと目をレースのカーテン越しに外にやると、当然だけど日の位置が動いていて、それにともなって耳が外から聞こえる音に意識的になると、それが午後の三時のことであるとすれば、もう小学校の低学年の児童たちがバス通りを下校のために歩いているその声が聞こえて(話の内容までは聞き取れないが子供たちがさかんにおしゃべりしていることがわかる)、そんなときに、一日が早く過ぎるな、と思うのだ。季節は前に進むけれど、言い換えると、季節は後ろに過ぎていく。

 映画館に入り、暗い劇場のなかで二時間かもう少し、そこに映された物語に取り込まれ、とくに若い頃は主人公に感情移入してしまい、その主人公の気分が乗り移ったような高揚した気分で映画館から出たものだったが、街はその二時間のあいだに日差しの向きも風の肌触りも気温もみな動いていて、映画の物語に取り込まれていた分、現実の世界の二時間から取り残された、そこが抜け落ちたような、短時間だけど浦島太郎の気分になったものだ。それが怖いとか悲しいという明確な感情ではなかったが、楽しいとか嬉しいではなくて、どちらかと言うと後悔に近くて、そういう感情を、映画を観た高揚はちゃんとある一方で、いつも抱いたものだ。そのうち映画を観るということは、観た後にそういう気持ちに包まれることもセットでもれなく付いてくるものだと意識的でいて、その後悔に似た気分自体も楽しみになった。映画なんかを観ずに、街のなかで二時間過ごしていた方が、面白かったんじゃないか?というのがその気分のひとつの理由だったのかもしれない。

 在宅勤務で仕事に熱中したあとの一段落の時間に、ふと窓から外を見たときに感じる時間の流れは、なぜか出社して会社の仲間と一緒にいるときには感じることはなく、一人で在宅勤務を静かに黙々とやっているときにだけ、この映画後に感じる気分に似て感じる。まぁだけど勤務時間だから、勝手に仕事をやめて街へ繰り出すわけにはいかないから、しょうがない。病気で休んだ日にもそんなことを感じることがあった。そういうときの「行けない屋外」はいつも晴れている気がします。