誇り高き

 上野駅前の横断歩道。昨日に続き、車窓から撮った写真。これも数年前の写真。歩行者の信号が青で大勢の人が渡っているところにちょうど私の乗る電車が通る、その確率は五分の一かもう少し低いかもしれない。人がたくさん渡っているときの方を撮りたいという気持ちがあるから、ラッキーと思う。それがなんでだかは判らないが、例えば渋谷の駅前の交差点でも、人が渡っているときが、青信号を待っているときより写真的だ。どこでそういう「定番」の価値が決まっているのでしょうね?やはり写真の本質は動いているものの瞬間を固定することにあるということなのか。それを感覚的に知っているから、定番が決まるのか?

 上野といえば、駅近くの、ちょっと高級な焼き鳥の店に行ったことがあった。あれはブリューゲルの展覧会を都美術館で見たあと、金曜日の夜のことだったろうか。店が満席で、30分どこかで時間をつぶしてきて欲しいと言われ、30分後の予約をして、駅前のドトールだったかタリーズだったかで温かい珈琲を飲んだ。カフェの店内も満席で、入り口付近の狭い空間で丸い小さな椅子に座っていたと思う。

 ブリューゲルの「雪の狩人」(1565)という絵画がある。家族の期待を一身に背負って数匹の犬と一緒に狩りに出た二人の男が、狩りを終え、村に帰って行くところを斜め後ろからとらえている構図。狩り場は村より高い山だったのか、いま彼らは山の斜面を下ろうとしていて、眼下の村が小さく見える。そこに小さく人々が生きているのも見える。私にはそんな風に見える絵画だ。絵の中に狩りの成果が描かれていたかどうかまで覚えていないけれど、たぶん、これは私の期待がそう思わせるだけかもしれないが、狩りには成果があり、彼らは自信と誇りを持って、堂々と村へと帰るのではないか?と、私はそう見ていたのだが・・・

 ウィキペディアによると、遠くに見える村人たちはスケートに興じていて、狩人たちはそんな村人を見ながら、疲れ切った背中で帰ろうとしている、と書いてあった。その対比が人生の浮き沈みを象徴している、とも。いや、でもどんなに疲れていても、どんなに貧しくても、犬を引き連れて帰還しようとしている彼らの姿が、私にはやはり誇らしく見える。特命を持って選抜されて皆の期待を背負って任務に当たってきた誇らしい人たちに見えてしまうのです。絵画の見方に正解などないのでしょうが、あまりにウィキペディアの解説、それが多分世間一般の評価、と自分が見て感じていたことが違うので、びっくりしたし、正解などないと上述しながら、なんか間違ってしまった気分にもなる……

 30分の待ち時間に、こんなふうに、そのときはまだウィキペディアを読む前だから、誇らしい気分が乗り移って、ブリューゲルの絵のことを思い出したりしたのかな?その後の焼き鳥は美味しかった。