考える人

 先日、現代美術作家の男と話しました。ウェリントンタイプの黒い縁の眼鏡を掛け、白いシャツに黒いパンツを履いていた。年の頃は40代だと思う。私よりだいぶ若い。物静かで、話すときには手振りを加え、言葉を選びながら考えていることを伝えようとする。私の知り合いのカメラマンの学生時代の友だちの女性のご主人という関係で出会うことができた(後日に調べてみたら、国内外のよく知られた芸術祭にも展示をしてきた方だった)。線路沿いの炎天下で、ときどき電車が通ると、その騒音で声が聞こえなくなる場所で話しをした。そこは芸術家の奥さんが経営している花の店の前で、私たちは涼しい店の中で話せばよいものを、なんとなく炎天下で、汗をかきながら話していたのだ。誰かと話をしていて、その人がいままで聞いたこともないことを、考えたり感じたりしていて驚くことなど滅多にない。若い頃は驚くことがあったのかもしれないが、年を経ると、自分の経験で知っている尺度で誰かの言う事を解釈しようとする。本当は「いままで聞いたこともないこと」を聞いているのに、あぁそれはこういうことを言いたいのね、とばかり、自分の中に仕舞ってある、手持ちの尺度に強引に収めてしまい、それで安心しようとする。それに気が付いてからは、なるべく真摯に人の言うことを聞いて、わからなければわからないと、驚いたのなら驚いたと、目を開かされたならそのように、応えたいと思うようになったが、実際にはなかなか出来ない。それが悪しきプライドのようなことだ。しかし彼の言うことは、そんなプライドに固執できないほど新鮮な視点だった。例えば…

 視力が落ちたからと裸眼の前に眼鏡のレンズを置くけれど、これはその人の裸眼で見ているという生身の視覚情報に対して、一体どういう意味で解釈するべきか?

あるいは、

 湿度が高いところにある国で育つということと、そうではない国で育つということ、その湿度の差がとても大きくて、例えば時間の感じ方も違うのではないか。湿度が高い国の人は6000年が見通せるかもしれない。

 私は、ここにこうして書いている段階で、すでに彼の言いたかったことを捻じ曲げているかもしれない。私が解釈した誤訳というのか、私の能力で彼の言う事を受け入れられる理解の限界があるんだろうと思う。

 もう一度話を聞いてみたい温厚な大きな人に思えた。

 彼と会ってから数日の間、眼鏡と裸眼、湿度と時間、について考えているが、なにか取っ掛かりとなることが掴めないまま漠然とした疑問になっている。疑問はその課題そのものになにか答えたいが取っ掛かりが見つからないので疑問に答えられないまま、という意味でもあるが、なんで彼はこんなことを考え始めたのか?という疑問でもある。もしかするとこの眼鏡と裸眼、湿度と時間、の問題は芸術家や哲学者には自明のありふれた課題なのだろうか?

 いまのところ、なんだか凄い人に会ったな、というだけで、止まっているが、また話してみたいものだ。