透明ビニール傘から空を見る

 雨の夜に車を運転していると、雨ではない夜や昼間に運転をしているときより、車の中にいる自分が、第三者のようだ。どこか少しだけ斜め上の空間に、置かれた映画用カメラが私を捉えていて、そのカメラを通して私を私自身が、覗き見ているように思える。右車線に並んで停まっているいると左車線を大きなコンテナトラックが走り抜けていく。このバイパスは結果として最後は右車線で走った方が早く到着するのだが、場所によっては左車線の方がより早く車が流れている。以前はそれを知って、場所により車線を変えてもみたが、もうそんなことはしない。到着時間にすれば一分の違いも生まれないに違いない。夜、帰り道、時間にもよるが会社から家までの所要時間は平均で75分くらいだ。大きなコンテナトラックは通り抜けると同時に盛大に水しぶきをあげ、フロントグラスが水を被るが、すぐにオートワイパーが働いて、前方視野を確保してくれた。そのあと、大きな雨粒がいくつか落ちてきて、やがて左車線の車も停まった。

写真を撮ろうと思う気持ちがどこから沸き、どこから実際に撮ることになるエネルギーの閾値を越えるのだろう。もちろん見えている光景を残したいというのが直接的要因だけれど、この暗い雨の夜の車中で、ここに至るまでどんな運転をしてきて、どんなことを考えていたか、なにを聴いていたか。その全部がシャッターをおそうと思う気持ちを作るのだろうが、こう書くとずいぶんおおげさだけれど、ほとんどの写真は、どうでもいい。木々の葉の一枚、海辺のいしころのひとつ、そんなふうな一枚の写真。そんなものにも至らないな・・・葉や石ころにはもっと崇高な時間の流れが現れている。そんなどうでもいいような一枚だけれど、カメラが決めた絞りの値や、偶然ここにあった赤信号なのか赤い光が、フロントグラスの雨粒を赤く丸く前ボケとして残していた。どうでもいいと書きながら、唯一無二の、どうでもよいわけがない写真だ。

(本当にこんなことをする必要があるのかわからないけれど、ナンバープレートは一つの数字を消したり入れ替えたりして加工するときもあります)

 二十歳のころ、自分は誘ってもらえなかった雨の夜に開催されたパーティーの話を、参加してきた友人の男と女から「良かったよー」と聞かされた。友人二人は恋人だったから、余計に「良かった」夜だったのだろう。そのパーティの会場は天井が透明なガラスドームで、ライティングの工夫があったのか偶然なのか、降って来る雨粒が金色にきらきらと光って落ちて来るのが美しかった、と彼等が言っていた。

 誘ってもらえなかったことが淋しかったか悔しかったかしたのだろうか?そういう気持ちはなにも覚えていないが、この話を聞いたのをきっかけに、安価な透明ビニール傘も「悪くない」と思うようになった。落ちて来る雨粒がきらきらと美しく見えるかもしれないから。こういう思いは数十年経っても変わらない。黒い傘や縞模様の傘や、晴雨共用の夏用の白い傘も、いろんな傘を持っている。旅先で急な雨に降られてコンビニに飛び込んで買った折り畳みの傘もいつのまにかふたつかみっつ増えてしまった。一方で透明ビニール傘はいまは持っていない。持っていないのに、たまに透明ビニール傘を使った記憶があるのは、観光施設などで貸し出している傘を使ったことがあるからだろう。そんなときには昼でも夜でも透明傘越しに真上の空を見上げる。びっくりするほど雨粒がきれに見えたことなどないけれど。だけど必ず見上げる。