赤い服の人

 ビルとビルに挟まれた路地を、太陽の光が真っ直ぐ通り抜けたり、影と領域を分かって半分だけ日なたを作ったり、ガラスや金属に反射した光がいろんな方向から来て混じり合って柔らかくあたりを照らしたりする。都会の朝は自然のスタジオのようで、場所を上手く選べば、道行く人もビル自身も自動車も、開店数日後に捨てられたお祝いの枯れた花も、飲み終わったワインのボトルが無造作に放り投げられた箱も、電気が消されたネオンサインの屈曲したガラスの管も、いつかの瞬間には主役となり、光の変化とともにその座を下りるだろう。

 捨てられた空のワインボトルに、昨晩はワインが入っていて、そのワインはどういうワイングラスに注がれ誰が飲んだのか?その誰かはどういう物語の末にこの店に来て、差し向いに座っている女性とはなにを話して笑ったのか?そしてその夜の中に二人が消えて行き、店員が空になったワインボトルをこの箱に捨てた。箱は店の勝手口、裏手にある。もしかすると、そこには猫がいて一声鳴いてなにかをねだったか?店員は猫にこっそり食べ残しの料理を与えたか?

 真っ赤なドレスを着た女性が国道の横断歩道を渡り、私とすれ違い、振り向くと背中が見えてやっぱり赤い。日がさす路地と路地の交差点を越えていった。

私は彼女のことを知らない。顔立ちだってすれ違う時にも見なかった。名前も年齢もわからない。いま彼女がどこに向かっていて、なぜ赤い服を選んだのかも、もちろんなにも知りはしない。どんな人生を歩んできたか、その中にあった悲しみも、後悔も、憧れも、知らない。

朝の町にいまある光景に、その光景につながっている無数の物語に、意識的になっても物語はなにも知り得ない。ただ、どこにもありふれていて特別な、無数の物語があったし、あるし、これからもある。気の向くままに、だけどそれ(知り得ない無数の物語があること)を忘れずに町を歩くとき。時が流れていく。

また暑い一日がはじまった。