名も知らぬ小さな実

 道端を歩いていたら小さな実が蔓に生っているのを見つけました。蝉の声がわんわんと、いや「わんわん」鳴く蝉はいないけど、クマゼミアブラゼミとミンミンゼミが一斉に鳴くことでわんわんと聴こえているなか、汗がだらだら流れるなか、それでも頑張って写真を撮るのでした。せいぜい5-6mmサイズの球です。

 蝉がものすごく煩く鳴いてるときにその森や山の形が、蝉の声の聞こえる方向聞こえない方向を分別して聞き分ければ、聴覚から視覚情報的に置き換えられるんじゃないか?と思ったことがあったけれど、そこまで私の聴覚の角度分解能力はぜんぜん足りなくて、山の稜線の形など把握できなかったですね。これは普通なのか? 

 子供の頃にはよく自分の聞こえている聞こえ方、見えていること、味、その他の五感が、第三者が感じているのと同一なのかどうか?疑問に思ったり不安に思ったりしました。いや、いまもその疑問は解決していないけれど、ぜんぜんそんなことを疑問に思ったり不安に感じたりしなくなった、その違いが大人と子供の違いの多々ある事例のなかのひとつで、子供の方が素敵かもしれない。

 大量生産のマイクロコンピューターであれば、センサーが受けた信号を信号処理してアウトプットしたものの同一性は保たれるだろうが、人の脳は大量生産品ではないから、しかも相互に置き換えられないから、わからないな・・・暇人のつぶやきのような文章でした(笑)