望むことで最後にはしない

 何年か前の9月に私の乗った電車が多摩川の橋を渡っているその同じ時刻に白い上下を着た男がボール遊びのボールの行方に先回りしようと身体を前傾させて走っていた。写真にはそういうことが写り、写真を撮ったり見るということは、そういうことを考えるきっかけになる。世界には人間が一度も見たことがない場所があり、あるいはこの瞬間には誰も見ていない場所はほとんどの場所がそれで、そこにも時間が流れていて変化が起きている。ひどいときには(ひどいのかどうか判りませんが)写真に写った瞬間を眺めながら、そんななんちゃって哲学みたいなことまで思いが及ぶこともあった。年齢を重ねたいまはあまりそんなことは考えずにただぼーっとしている感じであるけれど(笑)

 先日、朝の5:30に、私が出勤のために自家用車に乗ろうとしているところに、私と同じ年齢の同じマンションに住む某さんがハーフパンツにTシャツ姿で外に出てきて、少しだけ肩を回したり屈伸したあとに、颯爽と朝日のなか、走り出して行った。そういえば5年くらいまえにひと月かふた月のあいだ、毎晩ほんの2キロくらいだと思いますが、ジョギングもどきで走ったことがあった。でも、もしかすると今はもう走れないんじゃないか?と思ったから、某さんはすごいなと感心した。でもだからといって自分がまた走ることはない気がする。そこにそうしたい望みがないものなあ。

 フライかハーフライナーかゴロかわからない。ボールは画面の中には写っていないようだ。だけど男がボールを追っているらしいことは判る。

 自分にとってあれが最後になったということが、その「あのとき」に、これが最後になるとはわからなかったということは多い。私は最後にグローブを手にはめて軟球のボールを受け止めたのがいつだったのか覚えていない。あるいはこのあといつかキャッチボールをする機会が現れて、最後はまだかもしれないけれど。最後に公衆電話でテレフォンカードでもコインでもいいけれど電話をしたのがいつだったかは覚えていないし、最後はまだかもしれない。最後にしたくないことは、そう望むことが大事。そりゃあそうだろうな。望めば持続する。というか、まずは望まなくては持続しない。必要十分条件ではないかもしれないが、必要条件だ。