時代と悲劇

 サイドカーに乗ったことはないです。このサイドカーにはもしかして犬がいるんですかね?撮ったのは2007年・・・最近HDDの2007年フォルダーを見直したので、ここのところ2007年の写真が多いのです・・・長嶋有サイドカーに犬を書いたのは2001年でした。

 戦争がなかなか終わらなくて、もう何万人の若者が理不尽に理由もわからぬまま死んでいるというのに、そういう個の悲しみに思いを馳せた報道は当初より減っている気がします。でも反戦の考えの基本は個の自由は誰も犯せないというところにあるはず。ビートルズだってそれに続いたあまたの反戦歌だってみなそうだった。最近思うのは、私がこの先何年生きるのかはさておき、生きてきたあいだ、自分には大災害や大きな悲劇やそれこそ戦争は直接的には降りかからずに過ごしてこれたけれど、そのあいだにも、ベトナム戦争があり、ポルポトの大虐殺があり、911が起きそれに続く戦争があり、東日本大震災が発生し、いや、まだまだそれに匹敵する悲惨がたくさん起きた。身近な驚異と恐怖におののいたのは(こんなことが起きうるんだ!と驚いたのは)オウムの事件だったかもしれない。人の人生のうちにこれくらいの悲劇が起きるのが、そんなものを確率で論じても仕方がないが、悲劇がこれくらい起きるのが平均的なことなのか?少なくとも第二次世界大戦が含まれないだけ、悲劇を目にすることは少なく来れたのか?そんなことをときどき考えます。

 国と言う単位は世界と言う単位から言えば部分だから、よく経営手法で言われる部分最適ではなく全体最適を、ということを当てはめると、国と国が争い始めるのは当たり前でそうならないためには、世界という単位をもっと自明で明白化するしかない・・・とか考えると、また先人がわかりやすく説いていたことの重みがわかりますね。

 だけどここにも矛盾があって・・・・単位を世界という大きさにすると、それを独裁することをどう防ぐのか、とか。たくさんいましたよね、60年代70年代には、こういうことを夜を徹して話している連中。

 またも写真とは関係のない話でした。