レコードの頃のこととか

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 今日の東京の日の出の時刻が5:21。なるほど私が家を出る時刻がほぼその時刻だから、先週や先々週と比べると、家を出る時刻が急に明るくなったと感じるのは、そういうことだった。自然のいろいろな周期はサイン波のように動くことが多いけれど、なにかが閾値を通り過ぎると、サイン波なんかではなく、急に変化する、相転換するようなこともあるんだなと思う。地球温暖化も1.5℃以下にという定量化された数字目標がここにきてよく言われるが、1.5℃暖かくなると、極地の氷の溶けることで天然ガスの噴出が抑えられなくなり、そのガスが出始めると、温暖化は加速的に(人がなにをやってももう止まらない勢いで)進んでしまうと聞いたことがある。マイクロサイズまで砕かれ空気中に漂うようになったプラスチックが人体にどういう悪影響を及ぼすのかはまだ不明らしいけれど、将来、外出とはガスマスクを被ることが必須になるかもしれないらしい。それでは、と考える。いったい過去のいつの時代までが、自然をそれほど痛めつけない、将来の子孫たちを苦しめることない、バランスの保たれた暮らしだったのだろうか、と。もしかすると明治時代、あるいはエコのバランスが最も保たれていたと聞いたことのある江戸時代なのだろうか。

 幹線道路、赤信号。昇ったばかりの日の光が古いマンション?を照らしている。古い建物は、古ぼけて汚れているぶん、朝日を浴びるとちょっと崇高で、かえって美しいと思う。終日きらきらし続けている新しいビルよりも。階段からハリネズミみたいに飛び出ている植物とその影。リュウゼツランの類だろうか。昨日までの冬の寒さが去り、朝は、まだ水たまりが残り、木々が濡れている、初々しい雨上がりだった。日が昇ると、気温があがり、湿度が高いせいで、ちょっとだけ夏を思い出させるむわっとした湿度を感じた。季節を先取りして感じるとなにか嬉しくなる。いつだって少し先を夢見る。

 サイモンとガーファンクルの「アメリカ」って曲は、若いころからずっと好きな曲だった。その歌詞がアメリカをバスで横断する主人公とその恋人の見た風景や小さな出来事を綴ったものだと聞いたことはあった。ぼく(主人公)は見失ったアメリカを探している。その心情の背景には政治的な大義のもとにベトナムに侵攻するものの、泥沼化していく終わりの見えない戦争に疲労し倦んでしまう若者の気分があると書いている人もいた(ちゃちゃっと調べただけですが・・・)。政治的大義とはなになのか? 

 ベトナム戦争が終わった日に、わたしは高校生だった。英語の土橋という先生が、今日は世界にとって記念すべき日だ、と興奮して言っていたが、目下の身の回りの自分のことで精いっぱいだった私は、先生の気持ちなど、なにも理解していなかったと思う。

 フイルムを入れていない一眼レフカメラのファインダーをのぞき、K君もJ君もM君もみな長髪で、彼らの方にカメラを向け、ピントリングをぐるぐる回して、ピントが合ったりずれたりする彼らをファインダーのなかで見つめて、それから空シャッターを押す。もう一回同じことをやる。飽きて、カメラを畳の上に置き、話に加わるかレコードに耳を傾けるかする。新品のレコードはどこにも傷がないけれど、どんなに慎重に扱っても、いつのまにかスクラッチノイズが入る場所が出来てしまう。♪話しかけても あなたはいない ただ悲しみが こみ上げ・・・ブチ・・・話かけても あなたはいない ただ悲しみが こみ上げ・・・ブチ・・・♪それが私の「ひとり芝居」(石川セリ)のレコードだった。スクラッチノイズは入って欲しくないが、スクラッチノイズがあることが自分の持ち物の証だった。「土橋、興奮してたよな」と誰かが言う。「あぁ、顔が赤かった」と誰かが応える。(その時点で)少し前に流行ったシカゴの「サタデイ・イン・ザ・パーク」も歌詞の裏の意味に反戦の思いが込められていたそうだ。

 スクラッチノイズ・・・いまや画像や音楽のデータはいつも新品で人の扱いで徐々に劣化することはないんだろうか。それはなにかの理解を欠落させているんじゃないかと思ったりするのは、老人のたわごとなのか。