秋の公園

 秋の午後3時、公園に一人の男がひとり、ふたり、私も入れればさんにん。良く晴れているけれど、とても穏やかだけれど、心のどこかに淋しさがある。写真はある現在だった瞬間を画像に留めて、その場所もそれ以外の世界にも新しい時間が流れて刻刻と「撮ったそこ」は変化していくのに、撮って固定された「さっき」が残るから、それ以外のいろいろな視点からの定義もあるけれど、良く「基本的に過去を向いていて、過去との相性がよい(すなわち懐かしさを呼びやすい)」と、誰かが言うか書くかしていた。その写真の向いている方向と、秋に属する人々の心が向いている方向は似ているかもしれない。まるでもう目の前には荒漠とした荒地がいつまでも続くかのようで、そして振り返ればそこには色彩に溢れた美しさが微かに遠くに見える。そんな風に一瞬思って、この淋しさを、悲しさを、どうしようか?と。この気持ちは誰にでも訪れるようだから、誰もいない海、とか、悲しくてやり切れない、と歌われてきた。だけど、そんな秋だって、昨年もあった、一昨年もあった、何年前もあった。それから冬が来て春が来て、夏になった。だから春に浮かれていてもそう思うようにはいかないぞ、一方で、秋に悲しんでいても、本当は、そんなに悲観することもないじゃないか。きっとまたいいことがあるし、必ず今と違う何かがやって来る。

 ぜんぶ潔白な人がいたらつまらない人かもしれない。ぜんぶ黒い人は最悪だ。清濁併せ持ち、清濁併せ呑む。夜は暗かったし、霧は物語を隠した。昼はもっと明るくて、皆が共通に喜べることが多かった。淋しい公園はあとにして、さぁ、誰かの待つ場所へ。