落ち葉焚き ラジオのこと

 たき火という童謡の歌詞では垣根の曲がり角で落ち葉を焚いている。私が10歳以下の子どもの頃はだいたい1960年代、その頃には、この歌詞の通り、近所では秋になると集めた落ち葉を焚くための焚火の煙がゆらゆらと立ち上るのは当たり前にあった。ときには父がそこにサツマイモを入れてくれて、出来たばかりのほくほくの焼き芋を食べたものだ。私がその年齢に住んでいたのは神奈川県の平塚市の、駅から歩いて20分くらい、いまは湘南ベルマーレの試合が行われる平塚レモンガススタジアムの近くだったから、都市部あるいは都市衛星都市のありふれた場所で、それでもそんな風景が秋には見られた。いまの子どもたちにこの歌を聞かせても。なんのことかわかる子供はかなり減ってんじゃないか?そもそも「火」を扱うことも見ることもすっかり減ってしまったんじゃないか。いちばん身近にあったのは煙草の火、煙草に火をつけるためのマッチやライターの火だった。年に数回は停電があって、マッチを擦り、大きな蝋燭に火をともし、停電が治るまでトランジスタラジオを聞いて待ったものだ。

 こう書いてふと思ったのですが、ラジオを聞くのは一方通行の感じ(リアルタイムでラジオパーソナリティの方と話すことはない、テレビのように映像がない)が強いから淋しさが残る。深夜に一人ラジオを聞いているとその気持ちが際立つ。だけどラジオを消して誰かが一方通行とはいえ話してくれるのをオフして静寂にしてしまうともっと寂しい、だから、ラジオは寂しさが残るけれど寂しさをとてもたくさん救ってくれる。そのラジオ特有の「感じ」ってむかしもいまもあまり変わっていないですね。ポッドキャストになってもラジオの「感じ」はあると思う。

 公園の落ち葉は、公園管理事務の方が適切に処置しているのですかね?最近は風を吹く風神の袋のような機械で落ち葉を飛ばしながら集めるのかな。この写真を撮った欅(だろうか?)の森のすぐ横には舗装された遊歩道が続いているのだが、そっちを歩く人の方がはるかに多いものの、ときどきこんな風に道を外れて落ち葉を踏みながら歩いて行く方もいました。

 落ち葉の上を歩くのも悪くない。落ち葉の上を歩いているからこそ、ふと立ち止まり高い木々の上野方の枝や、その隙間から見える青空とうろこ雲やを見上げる余裕が出来るのかもしれない。