13年前の読書

 13年前の11月の写真を見ていたら、自分が電車の中で本を読んでいる、その自分の手元を写真に撮ってあった。自分はいまこうして本を読んでいるのに、それなのにその自分の様子を、写真に撮っておこうと思う気持ちはどうして起きるのか?写真を撮るとき、自分は一歩引いて、俯瞰するように、客観的に、目の前の光景を眺めていて、そっちの方の自分が、こっちの自分の写真を撮ろうと思ったのだろうか。

 先日、誰かと話していて、写真が上手な人(というのは私なんかは下手くそな部類で、もっともっとずーっと上手な人のことを言っています)は冷徹なんじゃないかという話になった。わーっ!って目の前の光景に感動しても、その感動をちょっと横においやって、背景の処理だとかボケの効果だとかアングルだとか、いろいろと技術的なことを考える、そういうことを、わーっ!きれい!でも、わーっ!すごい偶然にいい瞬間だ!でもいいけれど、思ったときに、ささっと考えられるってことだから、それはちょっと冷めていて、人としては付き合いにくそうで冷たそうなんじゃないだろうか。そんな屁理屈で自分の写真がイマイチなことに言い訳をしたのだった。

 あるいは写真にこだわる人は映像記憶力が弱いんじゃないだろうか?一度見た光景をどこまで覚えているのかは比較実験した人もきっとどこかにいるだろうが、そういうことは調べずに書いているけれど、意外とばらついているんだろうな。なかにはまるでデジタルカメラの画素ごとのコントラストと色の数値情報みたいに、きめ細かに観た光景を覚えられる人もいるのだろう。そういう人って、写真を撮る必要、というかきっかけが少ないかもしれない。だから多くの写真を撮る人は、映像記憶力が弱いんじゃないか?とこれもきっと屁理屈だと思います。

 さて、13年前に読んでいたこの本は誰のなんという本だろうか?この挿絵を描いたのは誰だろうか?小川国男か、辻邦生か、加賀乙彦か・・・そんなもうあまり作家名を聞かなくなった昭和の人たちの名前が浮かびました。