ときどき美しい


 邦画「世界はときどき美しい」をDVDで久しぶりに観た。この映画は十分から十五分の五本の短編映画から出来ている。それぞれの物語でそれぞれの主人公が悩んだり彷徨ったり、考えたり悲しんだり、誰かを愛おしく思ったりしている。その主人公達への感情移入とは別のところで、気が付いたのは、この五つの物語がすべて「冬以外」の季節の話だったということで、それは映画の中の誰かが着ている半袖のシャツが風に揺れていたり、酔っ払った中年の男が街の片隅で眠りこんでも大丈夫だったり、そういう一つ一つの場面のそこここで判った。
 それぞれの物語よりも、冬以外の季節のことが待ち遠しいと思った。けっこう熱望した。隣の芝生がきれいに見えます、じゃないけれど、いまこの季節より他の季節を望んでしまっている。今を楽しまないで違う季節を待っているというのは情けないことだと思う。

 ところでOさんの問題はねつ造とか盗用という結論で一段落したようだが、世界的な大発明や大発見があれば、それの追認試験が行われ、かつそれをベースにして様々な派生研究が行われ、そうやって科学が少しづつ進歩(?で、いいのかな)していくのだとすると、その業界というか世界に属してそれなりの年数の経験を積んでいる人が、あっと言う間に嘘がばれてしまうことをねつ造したり盗用したりして偽装して発表して、(まやかしの)「栄光」や「脚光」に浸れたとしても、そんな期間はほんの一瞬のことで、そのあとに約束されている「失脚」は、延々と、一生を掛けても償えないことになってしまうのは誰でも明らかに判ることだよねえ。なのにどうしてそういうことをしてしまったのか?というところに興味があるが、あまりそこを知りたいという人はいないのかな?そういう切り口の分析を聞いたことがない。一瞬とわかっていても栄光に浸りたかった?
 自分の子供を自ら傷つけてしまってから必死に看病する、という「症状」の病気があるそうだが、Oさんもなにかそういうことを患っていたなんてことはないのか?そうでもないと、にわかには信じられない茶番だ。

「すぐに確認出来ることで嘘はつかない筈だ。」
ビブリア古書堂の事件手帖6 にそんな一文がありました。ビブリアの作者もOさんのことなど考えてるうちにこんな文章を書いたのではないのかな?ま、そんなわけないか、、、