夢中は素敵だな

 三連休明けの火曜日、在宅勤務で一歩も家から外に出なかった。近所のコンビニにも行かず。窓を開けるとときどき風が抜けて青いカーテンが少しだけ揺れる。暑くもなく寒くもなく、それなのに快適とは言えずなんとなく息苦しい。昨日からそんな感じが続いている。家にいたから写真は撮らなかった。撮らなかった日はいつものように過去に撮った写真を観に行く。だいたい同じ日の写真。上の写真は1年前の10月9日外苑前駅近くの交差点で渋谷の方にカメラを向けて撮ってあった。画面の左の方にトラックの白い荷台が写っていて、そこをトリミングした。たぶん1970年代のFD55mmF1.2のオールドレンズで撮っている。ここに来る前に私は恵比寿で蕎麦を食べていた。一人で大テーブルの片隅の席に座り、アクリル板で仕切られたスペースで食べたことを微かに覚えている。いま、この日のブログを読み直したら蕎麦屋のことは書いていなかった。蕎麦の前に東京都写真美術館宮崎学展を見ていた。この外苑前では公文健太郎写真展を見ていた。そんな日があった。もう一年も経ってしまったのか、ついこのまえのことのようだ、と今日は感じた。一年ではなく十年を例にすると、十歳の小学生の十年前は生まれたばかりだから、はるか昔で覚えてすらいない。ニ十歳のぴかぴかの成人の十年前は小学生で、おれも子供だったな背も低かったし初恋さえまだだったなどと思う。三十歳の新米パパにとって十年前は二十歳で、大人のつもりだけどまだまだガキでどうしようもなかったなと思う。時が進んで、五十になればやっと子供が成人してやれやれとこの十年を思い返す。その後は、あまり変化がないから、一年はあっという間で、一年前は今とあまり変わらないと思うのかもしれない。だけどなにか夢中なことがあれば、そのことに関しては、一年前といまは違う、二年前と一年前は違う、三年前と二年前は違う、となにかが変わっている。それでも夢中であり続ければ、それは素敵だな。いや、違わなくてもいいや、夢中であれば素敵だな。

 この上の写真を私は何百枚の中から結構いいじゃんと自分で見つけて一年後に拾い上げた。なんで?と思う。そのあたりのありふれた交差点で、ピントは曖昧で、色収差が盛大にあり、露出はオーバーだ。色収差のせいで白い光っている部分にマゼンタ色が乗っている。当たり前の構成要素が写っている。手前に車がいることが右下のぼけたドアミラーでわかる。信号待ちをしている自転車に跨った人がいてその人は髪のあたりを気にしている。道路は左後方から渋谷方面に下りながらカーヴしている。赤信号が写っている(最新の信号は高速点滅しているらしく、写真に撮っても赤や青が写らないときがあり興ざめだ)。当たり前の青空と当たり前の10月の街路樹。なんてことはないそのあたりの写真だ。でも言葉にならないどこかでこれがいいと今日は思った。誰にもつたわらないかもしれない。