西日の時刻

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1月2日のブログにも昭和10年代に撮られた叔父と叔母の子供の頃の写真を載せた。これも従姉妹から譲られた箱の中に入っていたセミ版のフイルム(一コマづつカットされている)にあった写真。雨が続いているので、午前のうちは、箱の中のネガをホワイトスクリーン上に置いて、マクロレンズで接写を行った。2日のブログに書いたのは、同じような好天でもリアルな好天のある日よりも写真に残っている過去の好天の日に強烈に憧れる気持ちが生まれるといったようなことだった。それは好天というものを自分のなかで理想的な好天に消化していて、それがそこにあるように思ってしまうのかもしれないな。この写真は好天ではなくて西日と思われる斜光線が写っている、そのなかで少女はお気に入りのお人形を手にして、少しはにかんで写っている。ピントがぼけている。写真の右側の部屋の奥のガラス戸?に合っているようだ。カメラマンは西日の当たった襖の前であれば、まだ露出アンダーにはならずかつ手振れもしないでぎりぎり写真が撮れると思ったのかもしれない。そこでこの場所に座るように言ったのかもしれない。あるいは少女がもともとこのわずかに残った光の「溜り場」に移動をして一人で人形遊びをしていたかな。そういえば、このフイルムが届いたのは数年前だけれど、二十年かもっと以前に、同じ父の実家から古いカメラをもらったことがあった。折りたたむと煙草箱を一回り大きくしたくらいの直方体になり、使うときはボタンを押すと直方体の一つの面が開いて蛇腹の先についたレンズがぐっと伸びる。そういうセミ版のカメラだった。そのカメラをクラシックカメラの専門家のような知人に見てもらったら、1930年代のドイツ製のカメラで、とくに有名なものではなく、当時たくさんあった一般用の安価なカメラのひとつ、とのことだった。そのカメラのことをずっと忘れていて、ネガを受け取ったときにも紐づけては思い出さなかったけれど、そうか、あのカメラで撮った写真だったのかな。と、今晩になり思い出した。
この年齢になっても恥ずかしながら間違って覚えていたことに気が付いたり、知らないことに出会ったりする。例えば「歯に衣きせぬ」と言う言葉がある。今日テレビのニュースでアメリカの有名なメディアのコメンテイター(今風に言うと?)というかニュースキャスター(今風に言うと?)というか司会者のレジェンドのような方が90歳くらいって報道されていただろうか、亡くなったということが取り上げられていた。そしてその方がクリントン大統領に話を聞いているような場面の写真とともに、アナウンサーが「はにきぬをきせぬ物言いで人気を博した」みたいなことを言った。私は長年間違って読んでいて「はにころもをきせぬ」だと思っていたし、そこになぜか疑いがなかったので、アナウンサーが間違って原稿を読んだとさえ思ったのが、調べると私がずーっとずっと間違っていたのだった。

それから日本語の孤独にあたる英語に「ロンリネス」と「ソリチュード」があってニュアンスが違うってことを最近とあるところで読んで知った。私はそもそも「ソリチュード」という英単語を知らなかったのである。

調べると、ロンリネスはこうこうで、ソリチュードはこう、と説明が書いてあるが、それもちゃちゃっと引用すると誤っているかもしれない。

西日がもうすぐ沈んで夜になる。最後の明るさのなか、陽だまりの場所を求めて少女は廊下に出て、ひとしきり大好きな人形に語りかけて一人で遊んだ。少女は一人で遊ぶそんな時間が好きだし楽しい。それを見ているカメラマンはそんな少女が痛々しく見えてしまう。というような場面を想像したときに少女の気持ちとカメラマンの気持ちにずれがあって、どっちかがソリチュードなのだろうか。

予定通り、土曜日曜はずっと家にいた。日曜の午後からは雨が止んだけれど、近所のテイクアウトパスタの店まで歩いて行って、旬の根菜のトマトパスタを買って来た、それだけが外出だった。